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人は何のために死ぬべきか



加 藤 良 一




 「人は何のために死ぬべきか」 と問うのは、京大工学部と東大経済学部を出たのち、キリスト教の本質を突きとめたいと、還暦を過ぎてあらためて上智大大学院神学研究科に進み修士号まで取得した奥山篤信氏である。
 奥山氏の著書 『人は何のために死ぬべきか キリスト教から読み解く死生観』(スペースキューブ、20148月)をfacebook 「愉快の会」 のお仲間、Hiromi Koyama Fujiwaraさんから送って頂いた。

 「人は何のために生きるべきか」 とか 「人はどのように生きるべきか」 というような命題であれば、容易に解けるはずはないものの何かしら考える方向性は分かるような気がするが、それに対して 「人は何のために死ぬべきか」 と問われると一瞬身構えてしまう。なぜだろうか。正直なところ、自分にとって 「死ぬ」 ということが積極的にする 「何か」 と関係があるとは思いもしなかったからである。自分にとって死は、たぶん病気か寿命かあるいは事故に遭うなどでこの世から消え去ることだと思っていたからである。

 『人は何のために死ぬべきか』 の主な目次は以下のとおりである。奥山氏が何をいわんとしているかがある程度分かるのではないだろうか。氏は右翼でもなければ、ましてキリスト者でもない。真に日本の将来を憂い、それがゆえに歯に衣着せぬ論法で主張するのである。

 ひと言つけ加えておきたいのは、ここでは個別に深く掘り下げて言及はできないので、文脈を無視して部分的にことばを切り出されると誤解されかねない心配があることである。そのあたりの意を汲んでいただきたい。


 

第一編 余は如何にして人間イエス敬愛者となりしか
キリスト教との出会い/日本人のキリスト教理解/政教分離について/キリスト教ではなく偽善を蛇蝎のように憎む人間イエス敬愛だ/他

第二編 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない
友のために命を捨てるとは/友のために命をささげた人々/平和至上主義者と人命至上主義者の危険性/他

第三編 日本のキリスト教界の暴走 反日・自虐史観の群れ
政教分離を唱えるキリスト教界こそ政教分離を踏みにじっているのだ!/キリスト教の偉大さ/カトリック教会における偽善者の群れ/他

 



 奥山氏を神学研究科に進むほどに突き動かしたのは、キリスト教そのものというより、人間イエス・キリストを求めてのことだという。60歳を過ぎてからのチャレンジということも驚きだが、「何しろ、命の捨て場所を探すためにキリスト教神学を学ぼう」 というのだから、並大抵のことではない。

 奥山氏は 「まえがき」 で、キリスト教について日本でよくみられる誤解を次のように指摘している。

戦後、よく聞く短絡的な表現の一つに 「一神教は不寛容だ。一神教であるキリスト教(ユダヤ教・イスラム教)が不寛容だから戦争や紛争が引き起こされる」 というものがある。これらはアメリカのイラク戦争やパレスティナ紛争などについて、したり顔の政治家や政治評論家が、あたかも日本が平和国家であるのは多神教だからであり、他の諸国の紛争の原因は好戦的な一神教に基づくものだと単純化してしまう、いわば常套句であるが、誤りである。好戦的というが、仏教徒であるスリランカやタイでの内戦は如何に説明するのか……そもそも大部分の日本人には信仰心がまったく欠如している現実を忘れてはならない。


 このようなことを背景にキリスト教やイエス・キリストに関心を寄せ、大学院まで進んで神学を学んだのである。奥山氏自身はキリスト者ではないが、人間イエスを敬愛し 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」 という言葉に深く共感している。

 わたしがあながたを愛したように、互いに愛しあいなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。(ヨハネ15:13


 イエスのこの言葉は、マサダの戦いでユダヤ民族の永遠のために誇り高く命を絶った(集団自決した)兵士は、まさに日本精神が存在した戦時中の英霊を彷彿とさせる。さらにキリスト教的立場でいえば、「神に奉仕するという必然性が要求した時だけ、起こりうるものである。その場合には、人間はおそらく死ぬことができる。いや、確かに死なねばならないであろう。」 としている。このことは、日本古来の 「日本精神」 にも通じるという。

 また、福島原発の放射能事故についての50人の決死隊について、ニューヨーク・タイムズは、その献身的な働きを讃えたが、これもまさに日本精神の現れであるとしている。

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 「第二編第2章 友のために命をささげた人々」 では 「武士道」 と 「葉隠」 に言及しているが、そこでは新渡戸稲造の著書 『武士道』 は近代思想の産物であり、本来の武士道を正しく著してはいないと断言している。

はっきりいえば、今日流布している武士道論の大半は、明治武士道の断片や焼き直しである。それらは、武士の武士らしさを追究した本来の武士道とは異なり、国家や国民性(明治武士道では、しばしば 「武士道」 と 「大和魂」 が同一視される)を問うところの、近代思想の一つなのである。


 つまり維新で士農工商の階級制度が廃止され、武士が武士として生きてゆけなくなったのに代わり、似て非なる職業軍人が登場してきたあたりから武士道=大和魂というすり替えがはじまったというのである。


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 奥山氏が蛇蝎のごとく嫌う 「偽善」 としてヤリ玉に上げているのが現在の日本キリスト教界である。
 「第三編 日本のキリスト教界の暴走 反日・自虐史観の群れ」 では、政教分離を唱えるキリスト教界こそ偽善者の群れで、政教分離を踏みにじっていると糾弾している。

 日本基督教団 鈴木正久議長や日本カトリック司教協議会会長(当時)故白柳誠一大司教(当時枢機卿)は、キリスト者とはいいながら反日的で戦後の自虐史観に囚われている。政教分離を訴えながらも、首相の靖国神社参拝などに反対しているが、これこそまさに宗教の政治への介入そのものであるという。しかしながら、奥山氏はキリスト教そのものを否定してはいない。あくまで本来の姿を忘れた偽善、欺瞞的態度を憎んでいるのである。
 奥山氏はもっぱらキリスト教の偽善を非難しているが、世の中を見回せば、キリスト教以外でも政教分離などどこ吹く風という宗教団体がいくらでもいる。

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 ところで、平河総合戦略研究所代表理事でもある奥山氏が、東京平河町で主宰している勉強会に 「平河サロン」 というのがある。

 「知的好奇心の赴くままに、日本のあらゆる分野から人士を招いて話を聞き、聞き終わった後は、質疑応答から参加者同士の談論風発、時には支離滅裂の怒号爆発、しかも知的レベルの極めて高い明治初期の武闘派文人の集まりのような会」
であり
 「政界人士の中のいわゆる戦後教育の優等生達においては、平河サロンで散々な目にあった者もいる。それは当たり前で、現在の我が国政界の優等生は、軽佻浮薄の時流に受けること、支那や北朝鮮の喜びそうなこと、村山富一のようなこと、を言うからだ。このような者は、偽善を憎む平河サロンから無事に帰れると思ってはならない。」
と言われてしまうと、そう簡単には足を運べないような敷居の高い勉強会である。いやこれは勉強会というよりマジで格闘リングと呼ぶのが相応しいかもしれない。この会は、奥山氏が偽善を憎むある種高踏的な姿勢を具現化したもののように思われる。興味が尽きない組織である。


2015年7月11日



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