思い出すままに…、アトランダムに書き随時更新します
コール・グランツの歩み

History of Chor Glanz

加 藤 良 一 

2002 「イリス合唱発表会」賛助出演 野口享治(トップテナー)記 (2017/7/27掲載)
イリス合唱発表会に、女声合唱団ヴォーチェ・ビアンカと急造の混声合唱団としてゲスト出演した
1999 ファミーユひろ グランドコンサート'99 (2013/5/7掲載)
鎌田弘子先生が指揮する7つの合唱団のジョイントコンサートをいつもの大宮ソニックシティ大ホールで開催…
1996 第41回埼玉県合唱祭 おとうさんコーラスから男声合唱へ脱皮!(2017/3/24掲載)
この合唱祭ではミュージカル<ラマンチャの男>から「ダルシネア」と「ラマンチャの男」を演奏しました。オンステは19名。二代目
1995 平吉毅州 合唱講習会 (2013/5/3掲載)
当時、桐朋学園大学音楽学部教授を務めておられた、作曲家の平吉毅州さんによる合唱講習会をお…
1994 混声合唱団アルス・ノヴァ演奏会 (2013/5/2掲載)
創団6年目、ようやく男声合唱団の形ができてきた頃だったでしょうか。いつもは女声合唱団ヴォーチェ・ビアン…
おとうさんコーラスはジョッキ片手に大合唱 (2016/12/29掲載) 
グランツ創立から5年が経った頃、ある健康保険組合の月刊誌に紹介されました。カメラマンと
1993 混声で埼玉県合唱祭へ出場 (2013/12/31掲載)
この当時は女声合唱団ヴォーチェ・ビアンカとの混声合唱が中心でした。1994年に計画しているリ
1992 NHK-Radio Japan にダブカルで出演 (2013/5/9掲載)
1992620日(土)、NHKの海外向け放送Radio Japanに出演しました。“父の日”にちなん…
コンクールに初出場 (2013/12/31掲載)
創立4年目にして初めて全日本合唱コンクール埼玉県大会に出場しましたが、結果は残念ながら「優良…
埼玉県合唱連盟35年史 (2017/1/25掲載)
平成4、創立35周年の記念誌が発行されました。当時の理事長は田尻明規氏、副理事長
1990 第35回埼玉県合唱祭・初出場 (2017/3/22掲載)
創団から1年半ほどで合唱祭に初めて出演。その演奏について、講師による講評をコール・グランツ会報に
1989 初の大舞台 女声合唱団ヴォーチェ・ビアンカ リサイタルに賛助出演 (2013/5/3掲載)
グランツは1988年11月に創団し、その翌年の10月には、女声合唱団ヴォーチェ・ビアンカのリサイタルに賛助…
1988 コール・グランツ創立のころ (2013/5/12掲載)
コール・グランツの先輩にあたる女声合唱団ヴォーチェ・ビアンカは、1971年10月、埼玉県東部地域の


2002
  「イリス合唱発表会」賛助出演  野口享治(トップテナー)記

 324日(日)、桜の花も満開の埼玉県栗橋町イリスホールで開催されたイリス合唱発表会に、女声合唱団ヴォーチェ・ビアンカと男声合唱団コール・グランツが急造の混声合唱団としてゲスト出演した。

 演奏曲目は、
1.
「すべての山に登れ」ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」より
2.
「ふるさとの四季」日本の懐かしい唱歌を四季の移り変わりとオーバーラップさせたメドレー集
3.「黒猫のタンゴ」確か原曲は「Vorevo un gatto nero(黒猫が欲しかったのに)」だったか?
4.「きらめき・トキメキ・彩り」栗橋町町民愛唱歌

 当日はコールグランツの新井 元会長も聴きにいらっしゃっており、「観客として聴くグランツの演奏を楽しみにしていた」との激励のお言葉を頂いた。

 今回は、混声合唱+ピアノだけでなく、ヴァイオリン、クラリネットのコラボレーションでの演奏という初の試みであった。また、「黒猫のタンゴ」では、S氏とD女子の寸劇が演奏を盛り上げた。

 個人的な感想であるが、当日発表会の主役である「イリスシルバー合唱団」、「イリス合唱団」、「イリス少年少女合唱団」のうち、「イリス少年少女合唱団」は、栗橋町という地域を考えると40人近くもいて予想以上の人数に驚いた。高学年になるにつれて、合唱を離れる人も多いと思うが、この子供たちがまたいろいろな音楽、スポーツを経験して、将来、合唱に親しんでもらう時期がくればいいなぁと思った。






1999
  ファミーユひろ グランドコンサート'99
    7合唱団のジョイントコンサート
 (大宮ソニックシティ 大ホール・埼玉県
 鎌田弘子先生が指揮する7つの合唱団のジョイントコンサートをいつもの大宮ソニックシティ大ホールで開催しました。メインの演目、佐藤眞作曲、混声合唱組曲『蔵王』は作曲家ご自身に指揮をお願しました。
 2017年現在のグランツ指揮者・笠井利昭先生は当時バリトンのパートで歌っており、このコンサートの実行委員長を務めています。グランツのステージは、ミュージカル『ラ・マンチャの男』より、“Man of La Mancha”、“Dulcinea”、“Little Bird Little Bird”、“The Barbers Song~Golden Helmet of Manbrino”、“The Impossible Dream”を松村佳枝さんのピアノ伴奏で歌いました。全曲英語ですが、いつものことながらとくにテンポの速い曲ではみなさん舌が追いつかずかなり苦労していました。
 ピアノの佳枝ちゃんは、当時グランツの副会長を務めていた松村信男さん(バリトン)の娘さんです。この時のグランツ在籍者は43人もいました。これなら相当大きな曲でも歌えますね。



 蔵王』を歌うにあたり、親睦の意味も兼ねてみんなで蔵王へ行ってみようという計画が立てられました。ちょうど私の女房の実家が山形市内なので、蔵王のふもとにあるかみのやま温泉にホテルをとり、蔵王を見て回ることにしました。ところが、出発の前日、なんとそのホテルが集団食中毒を起こしてしまったのです。このホテルは「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」にも選ばれる老舗でした。
 幹事役を務めていた私のところへ、前日の昼ごろホテルから電話があり、大規模な食中毒が発生し通常の受け入れは不可能との知らせがありました。料理は出せないが別の場所で用意できる、宿泊だけなら受け入れられるが如何かというものでした。急きょ、関係者と連絡を取り合い、当日のうちに中止を決め全員に連絡するという仕儀となりました。考え方によっては、ファミーユひろ御一行様がその場にいなかったのが幸いと思えばよいでしょうか。
 ホテルは相当の混乱ののち、廃業も危ぶまれるような状況もあったかと思われますが、今では一応信頼も回復し元通りの経営をしています。ホテルがいかに混乱していたかは、最初の一報以外、その後何の音沙汰もなかったことからも良く分かります。幹事としては一言くらい何かあってもいいんじゃないのという思いでしたが…。






1996  第41回埼玉県合唱祭
       
おとうさんコーラスから男声合唱へ脱皮!(久喜総合文化会館・埼玉県)
 この合唱祭では、たしかミュージカル<ラマンチャの男>から「ダルシネア」と「ラマンチャの男」を演奏しました。オンステは19名。二代目指揮者となられた笠井利昭先生がバリトンにいます。ピアノは松村佳枝さん。全体的にまだ譜面から十分自由になっていない様子が見えますね。



 【講師講評】
■連盟理事長小髙秀一先生:
 バリトン良い音していますね。バリトンが生きていると男声合唱は生きてきますね。テナーとバスが後ろに行って、セカンドとバリトンが前に出たほうが、良いハーモニー作りができた思います。但し、ブレスを挟んだフレーズの作り方が気になりました。しかし、年々上手くなりびっくりしています。これからも期待しています。ありがとう。人数が少なくなったのは残念ですが…。
 
 当時は、この写真のようなテレカ(今ではもう完全に死語でしょうか!)が売り出されていました。時代を感じます。

■副理事長宮寺勇先生:
 もう何年になるのでしょうか? デビューした時のステージを思い出しましたが、ずいぶんスマートになられましたね。おとうさんコーラスから男声合唱団になられた感じです。鎌田先生の棒はもちろんですが、選曲もとても楽しませてもらいました。やはりステージは楽しくなくてはいけません。
■理事大槻義昭先生:
 バランスの整ったサウンドになってきました。テナーのフォルテもピアノも美しく、またバス、バリトンのソフトな発声はよく響いて全体のハーモニーの充実さを引き出しています。欲を言えば、もう少し曲線的なステレオサウンドに聴こえると申し分ありません。もう少しクレッシェンドやディミヌエンドなどを工夫して絵画的な表現をしてみてください。PS しかしなんでこんなに音色が変わったのですか。教えてください! 素晴らしかったです。いうことなし。






1995  平吉(ひらよし)毅州(たけくに) 合唱講習会
    作曲家を招いて講習会開催
 (栗橋総合文化会館イリスホール・埼玉県
 1995年当時、桐朋学園大学音楽学部教授を務めておられた、作曲家の平吉毅州さんによる合唱講習会をお願いしたことがありました。  この企画は、当時グランツの指揮者だった鎌田弘子先生と平吉さんが東京藝術大学で同期だったご縁もあり実現したものです。女声合唱団アンサンブル・ミミは、前年の1994年に発足した団体で、月一回の練習を基本とする専門家も含まれる合唱団でした。そのミミとグランツがジョイントし、混声合唱曲『ひとつの朝』のモデル演奏を受け持ちました。平吉さんに午前中からレッスンを受け、午後講習会に臨みました。
 このときのチラシは私がデザインしました。まだマッキントッシュのパソコンを使っていた頃です。イラストも自分で描きましたが、なんとも古臭いイメージですね。





平吉毅州さんのメッセージ原稿。
太めのペンで書かれた柔らかい筆跡がいかにも平吉さんの人となりが現れているなという感じでした。







1994
  混声合唱団アルス・ノヴァ演奏会
    混声合唱の記憶/記録
 (大宮ソニックシティ・大ホール)
 グランツ創団6年目、ようやく男声合唱団の形ができてきた頃だったでしょうか。いつもは女声合唱団ヴォーチェ・ビアンカとの混声ステージが多く、なかなか男声のレパートリーが増やせない時期でもありました。
 アルス・ノヴァは、ヴォーチェとグランツがジョイントしたもので、女声66、男声34、計100名という大きな合唱団となりました。会場はいつもの大宮ソニックシティ・大ホール(2,500人収容)。このくらいの規模でないと満足できないという勢いがありました。。

 『土の歌』は、ゲスト指揮者として作曲家の佐藤 眞さん、それに加えて第3ステージでテノールソロを埼玉オペラ協会会長の持木 弘さんにご披露いただくというを5ステージ構成の大掛かりな演奏会となりました。

オードリー・ヘップバーンの世界(女声) 指揮:鎌田弘子、ピアノ:森下翔巧、ヴァイオリン:長崎新吾
テノールソロ:野口享治
フランスの詩による男声合唱組曲
『月下の一群』
(男声)
指揮:鎌田弘子、ピアノ:松村佳枝
イタリアン ラブソング テノール:持木 弘、ピアノ:宮地麻里子
ディズニー ファンタジー ワールド(混声) 指揮:鎌田弘子、ピアノ:森下翔巧/松村佳枝、フルート:加藤良一
サクソホン:放生敏史、ドラムス:横山慎吾
混声合唱のためのカンタータ
『土の歌』(混声)
指揮:佐藤 眞、ピアノ:松村佳枝



プログラムに載せたこの写真は演奏会直前の埼玉県合唱祭でのステージです。
バリトンに凄い人(中央右手、ひげの殿下、笠井利昭さん)がいたんですネ !(^^)!



2017年現在残っているのは石黒憲司さんと野口享治さんのお二方のみ。
その後石黒さんは団長に就任されました。




同じく残っていたのは江橋幸次さんと私(加藤良一)の二人。その後江橋さんは退団されました。
1994年当時まだ中学生だった横山慎吾さん(左端)はその後音大を出てテナー歌手になりました。




バリトンは誰も残っていません。左端の笠井利昭さんは2017年現在指揮者となっています。



永堀健哉さん(前列左)が2013年3月で退団されたので残っているのは土田耕太郎さんお一人。
前列右は長らく会長を務められた新井米雄さん。





<ディズニー ファンタジー ワールド>
慎ちゃんは中学生とは思えぬスティックさばき、サクソホンの放生敏史さんは音大出のプロプレイヤー、
かたやフルートの私(加藤)はタダの下手の横好き(横吹き?)オヤジ、これに二台のピアノがつきました。







1994
  おとうさんコーラスはジョッキ片手に大合唱
 グランツ創立から5年が経った頃、私(加藤良一)が勤めていた会社の健康保険組合が発行する月刊誌に紹介されました。カメラマンとインタビュアーが練習会場にやってきて、いろいろと質問を受けました。当時の団員は、名簿上はトップテナー10、セカンヂテナー10、バリトン9、バス7、総勢36人とけっこうな人数がいました。テナー系が充実していました。もちろんみな若くて、どんどんメンバーが増えてゆく勢いのある時代でした。
 1990年夏、団ができてから2年ほどして、埼玉県合唱連盟が「おとうさんコーラス大会」を立ち上げました。歌って飲めるビアパーティに出ない手はないと早速申込み、第1回目の会場・サッポロビール川口工場に駆けつけました。予想した通りの楽しさに病みつきになり、以後連続で出場しています。インタビューではその時のことを中心に話したことを思い出します。










1993
  混声で埼玉県合唱祭へ出場
 この当時グランツは女声合唱団ヴォーチェ・ビアンカとの混声合唱が中心でした。1994年に計画しているリサイタルのステージのひとつ、ディズニーの世界から「星に願いを」と「スプーンフル・オブ・シュガー」を総勢70名で演奏しました。


 講師の合唱連盟理事・竹内秀先生(合唱コンクール担当)から、「難曲が並びがちな昨今のコンサートのなかで、このように楽しい曲を耳にすると心が和みます。楽しい曲を楽しく聴かせることは大変なことですが、素晴らしい音楽でした。ディズニーの色彩を感じさせるもので、「星に願いを」のイントロからテーマへの広がりは、あたかもステージに銀幕を見る思いでした。
 2曲目の「スプーンフル・オブ・シュガー」は、1曲目との対比も鮮やかでしたし、リズミカルな乗りがよかったです。またピアノとフルートの伴奏も素晴らしかったです。」とのコメントを頂きました。


■ この頃は庄和町(現春日部市)から来ていた団員が多かったので、ぜひ正風館音楽祭にも出て欲しいと依頼があり、「コール・グランツ庄和」と名付けて何年間か続けて出演しました。





1992
  NHK-Radio Japan にダブカルで出演
 1992620日(土)、NHKの海外向け放送Radio Japanに出演しました。“父の日”にちなんで、日本のお父さんたちを海外に紹介する特集番組でした。
 NHK
より埼玉県合唱連盟に出演依頼があり、当時常務理事だった宮寺 勇さんからぜひともグランツからダブルカルテットでいいから出て欲しいとのラブコールが届きました。それは放送の5日前の夜のことでした。なにせ時間がない、指揮は自分がやるから何とか協力してくれとの急なはなしでしたが、とりあえずトップテナー:浅川俊朗谷保達也倉繁健一、セカンドテナー:土岐一俊加藤良一、バリトン:松村信男桝田文八、ベース:土田耕太郎三上 登9人を揃えて出演することにしました。


 曲目は黒人霊歌 “Lord, I Want to be A Christian” と多田武彦作曲 『』 の2曲でした。もう20年も前のことなので細かなことは憶えていませんが、たしか入口を入ったエントランスの端っこで簡単な練習をしてからスタジオに入ったような気がします。スタジオの中には客席もあってお客さんも数十人いました。宮寺さんがインタビューを受けながら、合唱を楽しむお父さんたちということでわれわれを紹介しました。そして、アナウンサーからマイクを向けられて私も何か喋ったような…!

 現在、NHKのサイトを覗いてみると、「NHKワールド ラジオ日本」という番組があり、18の言語で全世界に向けて放送しています。これが当時のRadio Japanと同じものかどうかはわかりません。





1992
  コンクールに初出場
 創立4年目にして初めて全日本合唱コンクール埼玉県大会に出場しましたが、結果は残念ながら「優良賞」でした。
 この年の団員数は驚異的にも58名が登録されていました。そうはいいながらもオンステできるメンバーは6~7割りでした。常時30人はオンステしていたことになります。ずいぶん凄い時代でした。


 当時バリトンに所属していた青鹿博史君はまだ高校生でした。一年間グランツで一緒に合唱しながら勉強し、念願の国立音楽大学声楽科に合格したのです。
 現在のグランツのエンブレム(⇓)はこの年に私がパソコンを駆使して作成しました。“WE LOVE MUSIC CHOR GLANZ SINCE 1988”はバスの土田耕太郎さんの発案だったような気がします。







1992
  埼玉県合唱連盟35年史
 平成4年(19921115日、埼玉県合唱連盟創立35周年の記念誌が発行されました。
 当時の理事長は田尻明規(たじりあきみ)氏、副理事長に小髙秀一氏と村田 充氏、事務局長は宮寺 勇氏という顔ぶれでした。


 

 
(後列左から)大岩篤郎氏、宮寺 勇氏、村田 充氏
(前列左から)小髙秀一氏、田尻明規氏、鎌田弘子氏


 記念誌には座談会の内容が掲載されています。前述の四氏に加え、連盟顧問の鎌田弘子氏、常務理事の大岩篤郎氏の六人による座談会で、発展を続ける連盟活動の将来や夢について参加者の熱い思いが述べられています。

 鎌田先生は当時グランツの指揮者でした。また小髙先生は平成25年(20131128日にご逝去されています。

<合唱団からのメッセージ>欄に、当時グランツの団長であった新井米雄氏の「ある日…」というタイトルの投稿が載せられています。平成7年(1995)つまり3年後のコンクールでグランツが金賞1位に輝いたという “夢” を語ったものです。その新井先生も平成24年(2012423日ご逝去されました。ご葬儀にはたくさんの合唱仲間が参列し、「遥かな友に」を歌ってお見送りしました。

(↓ クリックすると拡大します)
 







1990
  第35回埼玉県合唱祭・初出場
 創団から1年半ほどで合唱祭に初めて出演しました。その演奏について、連盟理事・友清和親先生と連盟事務局長・宮寺勇先生による講評を、当時のコール・グランツ会報に掲載しました。会報は不定期ではあったものの頻繁に発行し、メンバー間の情報共有ツールとして活用していました。



 友清先生は、「颯爽とした男声合唱団に女性指揮者、とてもユニークでいいですね。合唱のほうはやや荒っぽいところもありますが、また、これも魅力のひとつです。なぜならば、男らしく潔いからです。あまり上手にならないでください(……)、埼玉に名物がひとつできました。」
 宮寺先生は、「とても楽しく聴かせて頂きました。素晴らしいですね。ただただ感心です。これからも男声コーラスを楽しんでください。おとうさんコーラス大会でお会いしましょう!」
 異口同音に聞こえてくるのは、まだ応援団の域を出ていないけれど、男声合唱を心から楽しいんでいる姿に共感を寄せてくれていることでしょうか。





1989
  初の大舞台 女声合唱団ヴォーチェ・ビアンカ リサイタルに賛助出演
   
(大宮ソニックシティ・大ホール)
 グランツ創団の翌年10月には、女声合唱団ヴォーチェ・ビアンカのリサイタルに賛助出演しました。1年にも満たない状態で大舞台に乗ることになりました。
 最後のステージ『眠れ幼き(こころ)』は、ゲスト指揮者として作曲家の佐藤 眞先生ご自身に振っていただきました。佐藤先生は鎌田先生とは芸大の先輩後輩の仲なので、出演依頼に一も二もなく応じてくれたものです。
 大宮ソニックシティ・大ホールは2,500人収容という大規模なもの、それがあらかた席が埋まるという大盛況でした。これは指揮者の鎌田弘子先生の集客パワーの凄さだと思います。もちろん担当者はそれこそ大忙しだったことはまちがいありませんが…。



フォーレ作品集(女声) 指揮:鎌田弘子、ピアノ:臼井えり子
山田耕筰作品集(女声) 指揮:鎌田弘子、ピアノ:臼井えり子
男声合唱団コール・グランツ 指揮:鎌田弘子
虹のステージ(混声) ソプラノ:岡田理恵子、指揮:鎌田弘子、ピアノ:臼井えり子
混声合唱のためのレクイエム『眠れ幼き(こころ) 指揮:佐藤 眞、ピアノ:臼井えり子
 この時のステージでグランツは男声合唱の定番曲程度しかレパートリーがありませんでしたが、とりあえず形は出来たかなというところでした。





1988
  コール・グランツ創立のころ
 コール・グランツの先輩にあたる女声合唱団ヴォーチェ・ビアンカは、197110月、埼玉県東部地域のPTAコーラスを母体とし、鎌田弘子先生の指導のもとに発足しました。翌1972年、埼玉県合唱祭に初めて参加。そして、第1回リサイタルを開いたのが1985年でした。つづく19868788年には埼玉県合唱コンクールで連続して銀賞を獲得するまでに実力がアップしました。
 そうなると、さらに音楽の幅を拡げたいという欲求が膨らみ、ヴォーチェに男声陣を加えた大規模な混声合唱団の夢が生まれるのも自然な流れでしょうか。ところが、ヴォーチェの練習は平日の昼間、仕事のある男たちをそこへ参加させることはいくらなんでもできません。そこで土日の休みを利用して男声合唱団を発足させることになったのです。それが198811月のこと、実質的なスタートは’89年からでした。
 当初のメンバーで現在も残っているのは私(加藤良一)だけです。’902月のグランツ会報を見ると、現在の埼玉県久喜市長・田中暄二さんの名前が出てきますが、このときはバリトンで歌っていました。その後、市長選挙に出るということで退団され、みごと当選、以来連続して今でも市長を務めておられます。さらに、現在埼玉県合唱連盟常務理事で、伊奈学園総合高校、川越牧声会、久喜女声合唱団、アンサンブル・シュルフラウエンなどを指揮指導している國弘雅也さんもメンバーの一員でした。このときのメンバーは総勢32名でした。


 いつの世も男声を集めるのは並大抵のことではありませんが、その当時も現在も事情はあまり変わりません。グランツが創団してから急速に拡大したその裏には、指揮者鎌田弘子先生の類まれなる人集め術がありました。かなり強引とも思えるやり方(-_-;)もあったものの、とにかく大きな合唱団を目指して拡大路線をまっしぐら、徐々に…というより対数曲線状に団員が増えたのです。

 グランツとヴォーチェの強みは、鎌田弘子先生の自宅敷地内に作られたホールを練習会場としていたことであることはまちがいありません。いつでも自由にしかも安く使えるメリットはたいへん大きな効果を上げました。その後グランツは練習拠点をJR栗橋駅前のクラッセホールに移しましたが、ヴォーチェは今でもそこで練習しています。






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