美味しい、と。
美味しくない、と。








酔いの味覚 −よいのみかく−




















「村雨さんって、お酒を飲まないんですね」

突然に。
幼い少年探偵は何を思ったのか。
そんなことを口にして。
ただ静かに煙草を吹かす村雨を眺め見た。
いつもなら鉄人の整備にと出掛ける彼も。
今日は生憎の雨で。
大人しく座って外の様子を眺めている。
窓を打ち付ける雨粒は細かく。
叩き跳ねる音が何所となく寂しげで。
ひんやりと寒く、静かだった。
口の先を上げ、笑みを零し。
逆に相手へ問い返してみたりする。

「ほぅ、如何してそう思うんだ?」

「飲んでる姿を見たことがありません」

きっぱりと言い放つ彼の返事は。
捻のないもので。

「あのな、俺は子供の前で酒を飲んだりしないんだよ」

煙草を銜え、呆れた様子を演じながら。
その小さな頭を大袈裟に撫でつける。
左右に揺らされて暫く、限界がきたか。
柔らかな黒の髪がくしゃりと乱れたままに。
幼い手は傲慢な大人の腕を払い除けた。

「子供扱いするのは構いませんけど、それを形にしないで下さい」

不愉快そうに睨めつけさえするが。
決して怒っているのではないのだと。
ここ最近の、共同生活とやらで分かっていたので。
こちらが笑みを零したまま。
反省の色がないのだと知ると。
見限った様子でふいと正太郎は窓に視線を戻した。
この時期の雨はなかなか止まない。
秋雨が過ぎれば肌寒くなるだろうと。
夏の終わりに気付きながら。
ぼんやり考えていると。

「…酔うって、どんな感じですか?」

彼の方から言葉を発し、静寂を制した。
さすがは少年探偵か。
何事にも好奇心が強いご様子。
しかし何故に今、彼が興味を示すのか分からず仕舞いで。
深く考えたりはしないのだが。
村雨は曖昧に言葉を返した。

「ま、お前が大人になったら分かるだろうよ」

第一、酔うという身体の変化さえ。
どのように説明すれば伝わるか見当もつかないのに。
一体この子供はどんな返答を期待していたのだろう。
気分が良くなるとか。
楽しくなるとか。
その程度で満足するだろうか。

「…大人ですか」

その大人に彼がなったら。
なんて、自分でも想像がつかない。
それは案の定、相手も同じのようで。

「…あの時以来、署長さんはお酒をあまり飲まなくなったんです」

こちらの返答に満足しなかったらしく。
目の前の子供は話を続け。
こちらの様子を上目にちらりと窺った。
あの時以来、というのは。
およその意味は分かっている。

「こういう時こそ大人って飲むんじゃないんですか?」

そのままでは重た過ぎるから。
痛みや。
あらゆる負の感情を忘れたいために。
酒を仰ぐのではないか。
考え考え、正太郎は問いを投げ掛けてきた。

「そうとも言えないものさ」

時折に、面白いと思う時がある。
その目からは。
こんな風に事柄が見えていて。
自分とは物差しが違うから。
呆気に取られたりする。
何よりそんな違いを。
楽しんでいたりするわけだが。
まだ短い彼の年月では大塚署長の気持ちは図れないか。
否、図ってはいけないのかもしれない。
以前にこの子供が言っていたことがあった。
大塚署長は酒を選ぶのが上手いと。
今はいないあの人が関心していたと。
何よりその人物こそと交す杯が。
大塚という男にとっての美酒だったんだろう。
酔いの要は
鮮やかな潤いではないのだ。

「…身体がだるい」

「何だ、病気か?」

「そうじゃないけど」

膝を抱え込み、両手の小さな指先が交じり合う。
あどけなく危なっかしい、その白は。
自然と眼差しを誘う。

「嫌です、雨は…まるで同じで」

止まることのない水の眺めに。
正太郎が控え目に呟いた声は。
意識していないと聞き逃してしまいそうなくらい。
か細いものだった。

「何と?」

「敷島博士が自殺した時も雨が降っていました」

知らせを聞き、現場に着いた時。
警察官が伸ばす制止の手。
頬を伝ったあの雨の冷たさ。
暗い線路に目を凝らして。
姿が見えなくて。
焦りともどかしさが心を揺さぶる。
涙は何故か。
すぐにと滲むことがなく。
直面した現実をただ一途に受け入れた。

「薄情だと思いますか?」

眼差しが痛い。
子供が何だってこんな顔をするのだろう。
そこにあるのは。
憂いだ。

「不思議で、急に辛くなるんですよ」

こちらでも。
何を見つめるわけでもなく。
ただ視線は宙を描く。
涙なんて程遠いものだろうと思っていたが。
前に一度だけ、この子供が泣いた様を見たことがある。
逢ったこともない父親の声を聴いた時だ。
当然だろうと思う。
だが思い起こせばあの時に彼は。
全ての現実を受け入れる意味を知ってしまったのだろう。

「今も、辛いか?」

「…嘘はつきません」

理解しようと努めたに違いない。
行為の理由、生きていけなくなった理由。
例え分からないままでも責めずに受け入れようと。
そうあの人を想ったに違いない。
しかし気持ちは裏腹に。
拒否しなくとも苦悶の念が纏わりつく。
気付いてあげたかったという想いと。
受け入れる行為。
彼が、薄情だと呼ぶ感情。
目の前で途方にくれる自分の姿が見え隠れし。
嫌気が差す様を余所に。
落ち着いた姿勢で。
乱れない心で。
至って冷静な表情を構えながら。
正太郎は大きく息を吸い込み、凛とした声を発した。

「結局、僕は署長さんのことも博士のことも何一つ知らなかったんです」

どのくらいの時間が経ったのか。
気が付くと部屋は薄暗い影を落とし始め。
黒の輪郭を浮彫りに。
窓から覗く鼠色の空でさえ映えて見える。
少しでも明かりが欲しい。
そう思いながら村雨は立ち上がることなく煙草を灰皿に擦りつけた。
我慢しているだろう。
抑えているであろう。
だからといって考えを甘やかすことは出来ない。
機転の利く、勇敢な子供。
そして同時に敏感で。
愚直。
真実が見えない苛立ちは簡単に隠すことの出来ないものだ。
それは少しづつ、確実に彼を襲い。
幼さは不利になる。

「なんならお前も酒を飲んでみるか?」

百聞は一見に如かず。
その身で試したらどうだ、と挑発的に言えば。
眉をひそめはするものの。
忽ちに表情が和らぐ。

「そうですね」

立ち上がり、徐に手を伸ばして。
部屋に明かりを灯しながら。
微笑む彼の、黒の瞳が光に揺れる。

「僕が大人になったら、相手して下さい」

目先が眩しくて。
痛みに瞬きを繰り返し。
涙の滲む感覚が身体を走り抜ける。
無意識と、立ち尽くしたままの正太郎を窺えば。
目に微かな潤みを含ませていて。
理由はこちらと同じでないとしても。
触れることに躊躇してしまう。
今は、敢えて何も掻き乱す必要もない。

「言っておくが俺は飲み比べは強いぞ」

見つめられていることに感付いた様子で。
気恥ずかしく肩を竦めて、座り直しながら。
今度こそ正太郎は楽しそうに笑ってみせた。

「お酒は、美味しく頂かないと駄目ですよ」











終 2005/09




お酒にまつわる話を以前から書きたいと思っていて。
25話で敷島博士と酒を酌み交わす署長さんがあまりにも嬉しそうだったので
こういう形で話を書いてみました。
自分はやはり甘い酒が好きです…日本酒も飲めるけど、やっぱり甘い方がいい。
親しい人と飲む酒ほど、美味しくて楽しいものはないです。

敷島が自殺したと知った時、周りの人はどう思ったのか。
何故そんなことをしたのかと当惑するか。
はたまた、どうして気付いてあげることが出来なかったかと自分を責めるか。
正太郎も辛そうだったけど、一番苦しい思いをしていたのは署長さんだったのかな、と
最後のコブシ一発シーンを見て思いました。漢!大塚ッ!


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