桜が散った時。 永久の産声 −とわのうぶごえ− こんなことをしても何にもならない。 分かっていた、分かっていたはずなのに。 君も僕も、鉄人も。 戦後に溺れたこの国さえも。 全てを廃墟にしてしまえばいい。 もう一度最初から日本を出直しさせてやる。 今も聞こえる耳鳴りは、時折に豪雨のような。 冷たい牙を剥き出し、突き刺してくる。 差し向けられた銃口に恐怖は感じなかった。 ただそれを握る人の、兄の叫びが耐え難い苦痛として。 堪らなく寂しくて、堪らなく悲しかった。 初めて露となった兄の姿に、手に握るもう一つの操縦器も。 彼と共に在ることを望むかのように触れる肌を冷たく攻め立てた。 これを扱っていいのはお前じゃない。 光を受けた者が不躾に持つべきではない。 この操縦器は認められたものではないのだから。 あるはずのないものだから。 金属特有のひやりとした感触は。 そのまま、虚しさでいっぱいの兄の心のようだった。 父の遺言を掲げ、唯一の支えとしながら。 鉄人を愛すその手が作り上げた操縦器。 確かにあれは、兄のものだ。 「意外な所で会ったなぁ、少年探偵」 蒼い、蒼い空。 長く連なる洗い立てのシーツが細波のようになびいて。 最近の長い雨天のためか、病院内の洗濯物が一斉に日の目を浴び。 看護婦たちが忙しく動いている様が視界に入ってくる。 眠気を誘われそうな暖かい陽射しと清々に刻まれる時の流れと。 その心地よい穏やかな景色の中で。 正太郎自身もまた、澄み切るような瞳を細めて相手を見据えた。 眩しいくらいの、まだらに浮かぶ白い雲々。 その白と同じ、清楚な色を着こなした男は落ち着いた様子で。 まるで古い友人に接するかのように親しく笑いかけてくる。 村雨竜作、一部の人間からは人望も厚い浮浪の男。 お互い警戒すべき存在だと頭で理解しているものの。 最後に彼と会ったのはもう数週間も前のことだ。 それまでの事情を抜きにして、話をしたかったのが本心であり。 相手も逃げる素振りを見せず、悠長に歩み寄って。 ふとこちらの手元に目を止める。 「それは…見舞いの品だろ?」 控え目に飾り立てられた小振りな花束に。 村雨は尊いものを眺めるかのような眼差しを注いだ。 「看護婦から聞いてるんだ、患者に会わず花を届ける奴がいるってな」 優美に咲き誇る撫子の、繊細でほっそりとした花びらは。 思わず見惚れるくらい、綺麗な色をしていて。 女性の象徴と例えられる所以を誇示するように。 ただ凛と、その姿は何よりも映えて見える。 「奇遇ですね」 淡い色彩の花が風に揺れては頬を擦り。 淑やかな香りが小さく鼻をくすぐって。 正太郎は男に微笑んでみせた。 「僕も同じ話を聞いていますよ」 もう一人、患者に花を届ける人がいる。 しかも自分と同じ、本人に会わず看護婦に預けるのだと。 敷島博士や大塚署長に話してみれば双方とも首を傾げるばかりで。 初めはそれが誰なのか、検討もつかなかったけれど。 「貴方にしては趣味が良いと思ったけどね」 「生憎だが、花を包んだのは俺じゃない」 こういうことは詳しい奴に限る、と言い添えて村雨は意味深長に笑みを浮かべた。 彼らの中で花に詳しい人物がいるとすれば一人しかいない。 村雨一家の紅一点、高見沢という女だ。 ギャングの一人とはいえ、身嗜みはきちんとしているし。 この人もやはり女性なのだと再認識するのだが。 その性格は大胆でお転婆で、正直苦手というか。 疲れるので相手をしたくない。 そんな思いが表面に出たのだろう。 村雨は今度こそ、声を上げ豪快に笑ってみせた。 「そんな顔をしなさんな、まぁ…不束者だが宜しく頼むよ」 「…それ以上言ったら怒ります」 愉快そうに、けたけたと笑って。 挙げ句の果てには色男、とさえ付け加えては。 急に真面目な面持ちとなって、会ってやらないのかと問いかけてくる。 全く野暮な質問だと返事するのもまどろっこしく、黙って睨みつけたのだが。 「違う違う、うちのじゃない」 手を宙に振って相手が否定する。 「その花、直接渡したっていいんじゃないか?」 悪戯っぽく身を揺する撫子を視線で指差し、それはそのまま背後の病棟へと移る。 ここからでも見える、二階の一番端っこの、大きな樹で日陰になっている部屋。 あそこが彼女のいる病室だ。 ひそめていた眉根が力を失い、俯く正太郎を甘い香りが包み込む。 受け取った女性はこの花を見て何を思うだろう。 それ以前に、果たして相手の内に自分は存在しているのだろうか。 「いえ…どちらにしろこれで最後にしようって思ってたから」 「…奇遇だな」 表情を綻ばせる男の声音は何所までも穏やかで。 普段の村雨とは雰囲気が違っているようにさえ思えてくる。 「俺も、今回で最後にするつもりだ」 それまで感じなかった親近感をこの男に重ねるのは甘えたことかもしれない。 ただ、自分は知ってしまったから。 この先ずっと見え隠れする影を想い返さずにはいられないだろうと。 特別なものを共有した間柄として。 彼の中に亡き人を求めることは出来るかもしれない。 けれど、もはやその必要がないことは己自身でよく解っている。 「…立ち話も何だな」 村雨は草臥れたように溜め息を零すと。 優しく正太郎の肩を叩いた。 「場所を、変えねぇか?」 歌うような声、紡ぎ出される心の音。 胸焦がす、人の言葉。 悲しみで怒りで、愛そのもので。 そして兄は走り出した。 手に持ったのはあの操縦器ではなく、母の刀。 「だってあなた、小さかったこの子にそっくりだったから」 吐息を洩らすように囁いてその女性は微笑んだ。 そう、いつも兄の傍には貴方がいましたね。 笑って、手を差し伸べて。 話を聞いてあげて。 自分のことは何一つ告げず、兄の姿をずっと見ていた。 今は、まだ会えない。 会っても何を話せばよいのか。 だって彼女の中では、今も兄は生きている。 愛情を語る女性を黙って見ていられるほど自分は子供でないし。 また、大人でもなかった。 悔しいけれど、過去を理解するには無知であると認めざるおえず。 否、そのまま言葉通りに理解できるものじゃない。 それでも自分は、如何していくのか。 すでに心には留めてあった。 「…もっと落ち込んでるもんだと思ってたんだが」 立入禁止と書かれたテープを跨ぎ、無遠慮に敷地内へ入ると。 振り返ることなく村雨は小さく呟き。 「桜、散っちまったなぁ」 見事な美しい花を咲かせていた樹木はすでに青い葉へと衣を変えて。 散る時の静けさとは対照的に涼しげな音をざわめかす。 初夏というにはあどけない、温和な気候に恵まれながらも。 この桜の姿を見てしまえば確実に近付く春の終息を身に感じずにはいられなかった。 テープに書かれた制止の文字が一瞬眼を捉えたはしたが、注意はそれだけに止まり。 正太郎は躊躇せずテープをくぐると敷居へ足を踏み入れた。 大鉄人への入り口であったためここも多大な衝撃を受けたのだろう。 共潤会アパートの壁や柱は朽ち果てており本来の役目は愚か。 この状態では中に入ることさえ危うい。 さすがの村雨もアパート内へ立ち入ることなく、中庭のベンチに腰掛けた。 「…俺にも弟がいるからな」 心配はした、と男が笑う。 ギャングから気に掛けられるなんてとこれまでなら反発していただろうが。 それも今は抑えて、言葉に甘えることにした。 やはり知っていたかと少々驚いたこともあり、つくづく情報の収集力には舌を巻く。 実の、異母兄弟であること。 如何してと問えば雰囲気が似てるとぶっきらぼうに言い返された。 「正直なところ警察は怖くないが…お前は別だ」 頭上を仰いだ先には桜の新緑。 隙間から溢れる木洩れ日が心地よいくらいで。 「怒らせると怖いんだぜ、金田の奴も」 静かに村雨は瞼を閉じる。 似ているといわれると少しだけ照れくさい。 大きく、勇ましく。 闘い、生き抜いてきた貫禄。 それら全てが自分では敵わないものばかりで。 最初は彼を兄と呼ぶことに緊張していた部分があった。 嬉しい、というのが本音だけれど同時に弟であると名乗るのは気が引けてしまう。 「…僕には、似てるかどうか分からないけど」 「はは、そうだなぁ」 でも、なんとなく分かるんだよ。 同じ立場だから。 「何所かしら似てるって言われると、それが嬉しいもんだ」 単純だろ、兄貴って奴は。 そう言い添えた男が気まずそうに頭を掻いて。 胸元から煙草を取り出し、口に据える。 兄の心は虚無で満ちていたけれど触れてくれた手は温かかった。 あの人が自分をどう思っていたか、今となっては分からないけど。 彼の言ったこと、そのままの通りだったら。 それは己にとっても喜ばしいことで。 ライターをまさぐる手がふと動きを止めて。 村雨が見据えたのはアパートの玄関先。 「…取り壊されるんだろ?ここも」 「えぇ、このままにしておけないし」 あの桜の樹だって、その際に切り倒されるのだという。 激しい空襲にも耐え切った建物も変化していく世の流れには逆らえない。 ここだけじゃなく、この度の事で廃墟と化した地域は全て。 新しく、人の栄える町になるそうだ。 「…この国もどんどん変わっていく」 破壊と修復。 そしてその中から生まれるもの。 声が、聞こえてこないだろうか。 「色々と忙しくなるし、大変だな?」 「大丈夫ですよ」 相手に、自分に言い聞かせるように。 正太郎は目を細め、微笑んだ。 「これからは、鉄人と一緒にいるって決めたんです」 兄と父、そして残月と呼ばれた女性が生きた国に。 これからの日本に、歩を進めると。 「だから、きっと大丈夫ですよ」 小さく息を洩らし、目の前の男を真っ直ぐに見据えた。 またこの地に、今年と同じような。 綺麗な桜が咲けば良いと思う。 終 2007/05/25 今回は映画を観た感想をそのまま小説にした感じで。 もう一歩進んだ話も書きたいのですがそれはまた機会があれば…ッ(気合) 最後の正太郎君の姿はとても凛々しくて立派で。言葉一つ一つ胸にくるものがありました 新しい操縦器で鉄人と共に生きていく…それは過去と向き合うこと、そしてショウタロウが受け入れることの 出来なかった未来とも向き合うこと。両方を理解していくことかな、なんて。 「残月が見ていてくれるから」と言う時の、あの正太郎君の穏やかな声音は忘れられませんです TOPに戻る |