「撮りませんか、一緒に」 唐突に彼が言った。 写真 −しゃしん− もう、こんな季節か。 手を休めて窓ガラス越しに外を窺えば。 鮮やかな紅に染まっていた葉は地に落ち着いて。 寒空の元、木々はその寂しげな枝を覗かせている。 道理で冷えるわけだと。 布巾をバケツに放り込んで、溜め息をつく。 つい先程まではお湯だったのに。 埃と塵とで濁ったそれは生温く。 つんと、微かな熱に悴む手は痺れた。 自分の家は確かあの辺りだったか。 小高い土地に建てられたこの邸宅からは。 近辺の住居、一面を見渡せて。 少し物足りないような、閑静な町の印象を受ける。 まるで精巧に出来た模型みたいだ。 そして、広すぎる家。 何をきっかけに、掃除なんかを手伝うことになったのだろう。 使わない部屋、父親の研究所共に除いても。 結構な時間を費やしそうで。 終わる頃には日が落ちていると。 そう文句を洩らせば。 「だから、夕食はご馳走しますって言ってるじゃないですか」 飽々とした様子と、口先を尖らせ。 幼い邸宅の主は箒の持った手を休ませた。 「…お前さ、もっと子供らしいこと言えないのか?」 一人の大人相手にご馳走とは。 義理堅いを通り越して生意気にさえ思えてくる。 ただそれも慣れてくれば。 悪いことでもないのだけれど。 正太郎はこちらの問いに少しも間を空けず。 何を考えついたか。 無邪気とは到底言えない笑みを満面に零してみせた。 「じゃあ村雨さん、僕はお寿司がいいです」 「今何だって?」 「冗談ですよ」 唖然と、開いた口が塞がらない姿に。 目の前の子供は何事も無かったかのように背を向けるが。 明らかにその後ろ姿は肩を震わせていて。 笑いを堪えていた。 完全に遊ばれてるんじゃないかと。 気恥ずかしさと大人気ない苛立ちで。 口の達者な子供から目を背けた。 まぁ、しかし。 元気になったのは良い傾向か。 まだら岩での一件以来、訝しげに黙り込むことも多かったし。 この間までは、まともに寝てもいないようだった。 今になって気持ちも落ち着いてきただろうが、油断は出来ない。 彼の、鉄人を操縦する仕方が目に見えて変わっていたのだ。 荒っぽく、攻撃的で。 いつもの冷静さが感じられない。 まるで我が儘を通そうとする子供みたいで。 「…後は僕一人で大丈夫です」 小綺麗に片付いた部屋を見回して。 埃を中央に集めながら、正太郎は言った。 「隣の部屋、お願いしますね」 何かが止まって。 再び動き出したそれは。 以前と変わらない姿をしているとは限らない。 否、寧ろ自分は以前を知らない。 扉を開けて入った部屋は、あまり広いとは言えず。 使われていた様子もなく。 ただ小窓から洩れる光と戸棚に占領された部屋だった。 不思議な光景。 頻繁に人が踏み入った様子は無いのに。 何所となく、すでに綺麗に整っていて。 時間の流れを感じさせない。 だが一歩足を踏み入れた時に舞った砂埃は。 そんな感覚を鈍らせ、気のせいだったんだと思い直させる。 この度の掃除だって警察の許可があってのこと。 我が家へ帰るのに人の機嫌を見なくてはならないなんて。 全く馬鹿らしい。 もう他には何も残っていないのに。 あるのは父親が息子に託した細かい品々。 極当たり前のものだ。 ふと、先程の小さな背中が目に浮かぶ。 こんな家にあいつ独りで住んでいたのかと。 何とも言いがたい感情が湧いて。 知らずと眉根を寄せた。 とりあえず、近くの戸棚から片付けるか。 歩いただけで塵が舞い上がり。 それを小窓の光が控えめに照らし出す。 長い間、閉め切られていたせいか。 空気が不躾に喉を刺して。 思わず咳き込んで。 払おうとして。 その拍子に手の甲を戸棚にぶつけてしまった。 ガラス戸の軋む音が走り。 びくりと胸の辺りが緊張する。 正直なところ、居心地が良いと言えなかった。 他人の家というのは皆そんなものだろう。 迂濶に物を壊したり、触ったり出来ない。 何が家主にとって無二の品か。 こちらには分からないのだから。 「弁償だけはご免だな」 傷つけてはいないかと念入りに調べて。 腕を伸ばし、ガラス戸に触れる。 気になるというか。 特に意識はしていなかったが。 視線はいつの間にか透明な壁を通り越し。 几帳面に並べられた本の数々へと流れていった。 本、じゃない。 もっと大きくて。 重そうな。 「アルバム…?」 華奢な糸が丁寧に飾り立てられ。 表紙には実に見事な刺繍が施されている。 深い臙脂の色と折り重なるように。 鮮やかなそれは素晴らしく、よく映えていた。 自然と手に取ってしまい、暫し見惚れて。 辺りを見回す。 腕へと掛る重さに奥底から好奇心が湧いた。 アルバムの中には当然、写真が収められている。 これまでの、自分の知らない。 あの子供が写り込んだ写真だ。 今後の手助けになれるような。 何かがあるかもしれない。 また別に、愚かしいことだが。 身勝手な興味は深さを増すばかりでなく。 新しく彼等の輪へと加わった自分は。 未だ特異な存在であることを否めずにいて。 彼自身と。 彼を支えてきた回りの人たちを。 知りたいと思った。 近くにあった椅子を引き寄せて腰掛けると。 臙脂の表紙を開け、遊び紙を捲る。 最初に目に飛込んできたのは二枚の写真で。 その内の一枚はこの邸宅の外観。 大分昔に撮られたものらしい。 色彩は無かったが満開の桜を窺うことが出来た。 もう一枚は自分も認知している。 不乱拳にドラグネット、名のある博士たち。 中央に写っているのは正太郎の父親だ。 威厳ある勇ましい科学者の顔。 父ではない、もう一つの姿。 持ち主が何を思ってそうしたかは分からないが。 この写真には何度か抜き取られた形跡があった。 ページを捲って、次に目に飛込んできたもの。 大人が二人と、赤子が一人。 先程と同じようにこの家が背景に写っていたが。 可笑しくて、思わず笑みを零してしまう。 小柄な姿は相変わらずで。 楽しそうに微笑む様子は温かく。 こんな表情が出来る人は彼しかいない。 若い頃の、大塚署長だ。 そして隣に立つ男。 話をしたのは大分以前のことで。 スリルサスペンスの一件が最後の別れとなってしまったが。 よく覚えている。 亡くなった際は各新聞の見出しがこの男の名で埋まった。 敷島博士。 自ら命を絶った動機は未だ明らかになっていないという。 探るように写真を見つめ込んで。 大塚に優しく抱かれた赤子を指でなぞった。 小さな瞼が閉じられて、穏やかに眠っている。 状況から察するに、この子供は。 「僕です」 傍らで発せられた声に驚いて。 呆気に取られ振り返れば。 こちらの様子には目もくれず。 いつからそこにいたのだろう。 正太郎が肩越しに顔を覗かせ。 静かに写真を眺めていた。 「あ…悪いな、勝手に」 「構いませんよ」 徐に視界の中へと躍り出た手は。 ページを数枚捲って。 「この頃のことはよく覚えていないんですけど」 ある一枚を指差し。 正太郎は目を細めた。 「高見沢さんが上京してきた時の写真です」 女性一人を真ん中にして。 隣には黒の制服に身を包んだ大塚と。 まだ幼い正太郎の手を引いた敷島が並んで写っている。 場所は警察署の前で撮られたようで。 緊張しているのだろう。 女性の表情は今の姿からは思い付かないほど堅く。 笑みもぎこちない。 少しだけ。 唇の色が濃いなと、ぼんやり考えていれば。 正太郎はまた一枚、写真を指差す。 「これが七五三で…」 白い指先がアルバムを滑り。 その様を追い掛けて。 思い出でしか紡ぐことの出来ない人の過ぎし日は。 瞬く間に眼下を広がっていき。 誘い、己を揺るがす。 再び数枚のページを捲った先で。 微かに声を漏らして。 目を見張り。 「…これは」 一瞬だけ表情を曇らせたものの、思い直したように。 苦い笑みを浮かべながら。 「これは、署長さんが撮ってくれたものです」 言葉を切る。 目の前に差し出されたそれには。 自分の知る、見慣れた姿の少年探偵が写っていた。 見慣れた、というのは。 おそらく手に持っている操縦器のせい。 「…酷い顔だ」 哀れむように過去を眺める少年は言葉を吐く。 あぁ、なるほど。 以前と今とを交互に見つめて意味を悟った。 正太郎の笑った写真が一枚も無い。 操縦器を握り、蒼空を仰いでいるものがあった。 当然、視線は鉄の巨人へと向けられているだろうに。 その彼も他と同様、無愛想な面持ちで。 一面。 このページ一面に貼られた写真の数々は。 不可思議な程に異彩を放っていた。 「駄目、ですね…意地なんか張って」 ふと、彼の手が。 肩に置かれて温かく触れる。 静かに視線を落として。 ただ黙って。 己の奥底に沈みかけていたものが声を上げる。 あの時は、まだこの子供を許せなくて。 一方的に感情を投げ付けて。 こんな風に。 隣に立つことなど。 「…村雨さん」 囁くように名前を呼ばれ。 湿った吐息が耳元を掠めた。 「アルバムを閉じてみて下さい」 再び姿を現したあの刺繍を指で撫でつけ。 糸の流れをなぞる。 懐かしいといった感情とは違う。 まるで決して届かない尊いものを。 愛でると同時に。 諦めているような。 「この花が何かご存じですか?」 唐突に問い掛けてきた彼の言葉で気付く。 糸が織り重なり、鮮やかな色彩に飾られたそれは。 意外にも控え目でいて、清楚な花を形作っていた。 暫しの間、考え込んで。 やはり観念する。 「いや…こういうのはお高ちゃんの方が詳しいだろ」 相手を見やれば、目と目が合い。 子供は意味ありげな眼差しを注いで。 曖昧に笑う。 「その花は生前、母さんが好んでいた花だそうです」 笑っているはずなのに。 俄然、表情が寂しく感じるのは何故なのか。 徐々にそれは鉛のように。 見つめることさえ耐えがたい。 気分が、悪い。 「そしてそのアルバムは、南方へ行く前に父が母へと贈ったものだとか」 署長さんから聞いたんですよ、と。 付け添えた後の沈黙の中で。 彼は眉根を寄せると。 話そうか話すまいか悩んでいたであろう言の葉を。 小さな唇から洩らした。 「息子の写真でいっぱいにしてほしい…」 胸が痛む。 「父さんは、そう言い残していったんです」 苦い、苦い。 聞きたくない。 でもそれではあまりにも失礼じゃないか。 彼は、相手がこの自分であるから。 話すことを咎めなかったというのに。 現実と見比べるには悲しすぎる真実を。 分け合うことなど、所詮は出来ない。 知っているだろう。 如何してこんな話をするんだ。 「…なんてね、ごめんなさい」 耳元から遠ざかる声。 肩から手を離し、一歩だけ下がって。 子供は距離を置くと。 微かに首を傾げてみせる。 「退屈な話だったでしょう?」 「まぁ…楽しい話題じゃないな」 切なく、悲しい程の。 愛の溢れた話。 聞くに耐えなかったのは。 それが眩しすぎたから。 こんなにも瞼が熱く、沁みるように痛むのだ。 「…良い話だよ」 途端、驚いたように瞬きを繰り返して。 じっとこちらを窺う彼は。 草臥れたように、微笑んだ。 「寂しくなかったのか?一人で住んでて…」 臙脂のアルバムを丁寧に戸棚へと戻しながら。 正太郎は振り返り、目を見開く。 今更、野暮な質問だったかと躊躇いの念が湧いたが。 ゆっくりとガラス戸を閉じ。 元の場所へと収まったアルバムに視線を戻して。 口を開く。 「耳を澄ませてみて下さい」 突拍子もない返事をして。 穏やかに、瞼が瞳を隠し。 子供の身体は静かな呼吸を刻む。 その姿は、先程の写真で垣間見た。 あの大塚に抱かれた赤子の面影を残したままだ。 なんて静かなのだろう。 恐ろしい程、何も動かない。 時が止まっているみたいだ。 だが確かに時間は経ている。 目の前の子供はもう赤ん坊ではない。 この部屋だって、やはりそうだ。 時は歩みを止めない。 なのに、胸元がざわめく。 落ち着かない。 長く深い、溜め息が途切れて。 「…分かりました?」 凛とした口調に空気が破れる。 この家にはね。 音が無いんですよ。 声は一際に響いた気がした。 「寂しくないといったら、嘘ですね」 小高い丘に建てられた邸宅は。 周りの住居から閉め出されている。 それは地形や場所といった理屈もあるだろうが。 恐らく近寄りがたさもあるのだろう。 決して打ち解け合えない何か。 大体の予想は付く。 笑い声、泣く声。 叱る声。 声が溢れている。 人がいる限り溢れてしまう。 残された息子には。 一人でこの家を満たすなんて出来ない。 仕方のないこと。 「父さんはきっと、この家に帰りたかったんですよ」 否、帰ることを心に秘めていたのかもしれない。 息子の写真が詰まったアルバムを。 その手で開ける瞬間を。 祖国に対する忠誠心とは別のところで。 願い、焦がれていた。 「…だから、あまりにもお粗末じゃないですか」 父と母の帰る家。 父親が帰路を願った家。 人が恋しいからといって。 ここに誰もいなくなるなんて。 あまりにも。 「…三人の家だから」 守っていかないとね。 幼い主がずっと大きく見えた。 「そうだ、村雨さん」 唐突に思い閃いた様子で。 正太郎が切り出す。 「…写真、撮りたいですね」 柔らかく笑みを零し。 ちらりとこちらを見つめ返しては。 自分の指を折り曲げ数える仕草をする。 「署長さん、高見沢さんと…みんなで」 薄暗い、漆黒の訪れを漂わせる室内に。 明かりを灯して。 その様子を眺め続けていた子供は。 身軽な素振りで目の前に立つ。 「撮りませんか、一緒に」 時折こう思わずにはいられない。 手の掛る子供というのは、まさにこの彼を指すのではないか。 果たして周りの大人たちは。 気付いているのだろうか。 出来た人間ほど。 偽りが上手いと。 「…そうだなぁ」 素直になったとは思う。 以前と比べれば心を砕くようになったし。 何より、信頼を寄せられていると。 肌でさえ感じる。 それは喜ばしいことであり。 少しだけ影を過らせてしまう。 先程話した両親のこと。 そして塞いでいた己の想いを。 いままで口にしてきたことがあっただろうか。 自分のような大人に。 出逢ったことは。 「黒部の一件が終わったらな」 黒部という言葉に。 途端、眉をひそめた正太郎を無視して。 笑みを浮かべる。 それは相手に対するものではなく。 己に向けた自嘲。 後日執り行われるロボットレースに彼は行くと言ったが。 得策でないという意見では皆が同意した。 嫌な予感がする。 良くないことが起こる。 十年前に研ぎ澄まされた。 戦う者の勘。 きっとこのままではいられないだろう。 だがせめて抗うことが出来るなら。 結局、傍にいたいのは自分の方か。 「夕飯は俺が奢ってやるよ、何がいい?」 これ以上、彼の機嫌を損ねないようにと。 顔色を窺いながら問うてみれば。 こちらの気遣いなどお見通しと言わんばかりに。 正太郎は突っ撥ねた。 「無理しなくていいですよ」 「無理なもんか、一応俺だってな」 言い掛けた矢先。 軽く腕を突付かれ。 「…そうじゃなくて」 迷うように視線を泳がせては。 ほんの少し言い辛そうに。 相手は口を開いた。 「やっぱり帰りませんか?」 眼差しがこちらを捉え、注がれ。 彼自身も返事を待つことに緊張しているようだ。 躊躇うこともないのに。 そんな少年の仕草が微笑ましく。 偏に黙って。 家族と呼ばれることが無くとも。 望まれるなら。 それはそれでいいかな、と。 小さな額を指先で小突いて。 笑いかけた。 終 2006/09/17 何この恥ずかしい展開。(笑) 今回は自分の想像をもりもりテンコ盛りにしました。 家に音が無い…これは一人暮らしをしている友人が言っていた言葉です。 そこがずっと印象に残っていて、こういう話になりました。 自分には想像が付かないですよ、音の無い家。 色んな意味で衝撃を受けたことを覚えています。 23話で言っていた邸宅、研究所を爆破するということ、それが正太郎にとって何を意味するのか。 考えただけで何とも言えない気持ちになります。うむーん。 TOPに戻る |