立ち上がれ。








先へ −さきへ−




















とても会いたい人がいる。

慣れた手付きでネクタイを締め、徐に襟を正す。
鮮やかな赤に入った黄色のラインは自然と目を惹き、鏡にはいつもの見慣れた姿が映っていた。

「…何を笑ってるんだ?」

不可思議そうな表情を浮かべて締まりなく腕を上着の袖に通しながら。
しげしげとこちらを眺めて、村雨が問い掛けてきた。
夜も更けた真夏日、じんわりとした熱気に今の服装は少々息苦しいものであったが。
背筋を伸ばしてワイシャツの袖をピンと張ってみせた。

「別に何でもないですよ」

凛とした姿が鏡の中で躍る。
その様を眺めながら胸の内に安堵が湧いていくのを感じた。

「やっぱり、こっちの方がしっくりくるかなと思って」

見慣れた己の姿に正太郎は笑みを零す。
素性隠しに、と村雨から借りた衣服を着て街中へ出掛けた時のことを思い出せば。
あまりの可笑しさにただただ表情は緩むばかりだ。

「結局、関刑事にまでバレバレだったじゃないか」

「お前が普段から上品過ぎるんだよ、やる気あったのか?」

「村雨さんこそ、やる気の使いどころが違うんですよ」

繁華街で出会した関刑事を上手く騙せたと踏んでいたが、それはこちらの思い込みだったらしい。
目撃情報は彼を通じて大塚の所へと渡り、あっという間に足取りを掴まれてしまった。
そのおかげで父が残した地図の謎も解け、まだら岩にも行けることになり。
これなら端から署長さんの元を訪ねれば良かったと思いはしたが。
正太郎は無意識に先程まで着ていた借り物の衣服を見つめた。

「でも、意外と楽しかったかな」

村雨曰く、不良少年に扮して街中を歩いた時、確かに何かが違っていた。
普段は車で走っているものだから人込みに入るのが新鮮なんだろうと思ってはいたが。
後になって別の相違があることに気が付いた。
周りの視線。
鏡に映る今の姿を見ても如何したって不良には見えない。
ならあの時だって同じように、きっと自分は探偵は疎か。
世間を騒がせている鉄人の操縦者に決して見えはしなかっただろう。
意識していた以上に自分は特異な存在なのだと、改めて思い知らされてしまう。
それはいままでの立場と行いの結果であり、金田博士が残していった余りにも大きい遺業の故だった。
父が、己に残していったもの。

「何所まで聞こえていたんですか?」

「…何が?」

「レコーダーですよ、全部ですか?」

村雨がひしとこちらを見つめる。
すでに着替終わっていた彼は待ち時間にと煙草を口に据え、丁度その先をライターで灯したところだった。
困惑したように微かに唸って視線を泳がせていたが、やがて煙を吐いて答える。

「まぁ、全部だな」

「そっか」

鏡から身を離し、男と向き合う。
近くまで寄って膝を着いて座り、ばつの悪そうな表情を浮かべる相手を偏に見据えた。
何かを言おうとして口籠る、そんな目の前の男にもう意地を張るつもりもない。
妙な巡り合わせだが、村雨が裏なく手を差し伸べてくれているのは紛れもない事実だった。
不思議な縁に当たったものだと、そう思う。

「…案外大したことないでしょ、僕って」

自嘲気味に苦笑いをする。
研究所の地下室で父の声を、父の呼吸を初めて聞いた。
直接胸に問い掛けられる感覚はこれまで感じたことのなかったもの。
不馴れに耳に届くそれらに想いはどうしようもなく揺れ動いて。
自分は本当に、何も知らず生きてきたのだと。
動揺する心は詰まるように込み上げ、熱い雫となって頬に溢れた。
敷島博士と鉄雄君の姿を見ては父親とはこういうものなんだろうとぼんやり考えたこともあったが。
所詮それは単なる憶測でしかなく、己の都合のよい解釈であった。
ちゃんと理解していると、受け入れているつもりだった。
父から専心に注がれる愛情が自分だけのものであると知った瞬間、容易く己の自制心は砕けてしまった。
そうだ、自分はずっと以前からそれを欲していたのに。
ただ父親のことをほんの少し知らなかっただけ。

「今更仕方がないことくらい十分に分かってるよ」

こちらの言葉に黙ったまま、村雨が真摯な眼を打付けてくる。
それはいつもの彼とは印象が違って、少し恐くて。
挑発でない、ちゃらけてもいないその目は。
子供の姿を瞳孔に映し、鈍く光る。

「分かっているけど、そうだからこそ余計に」

レコーダーに吹き込まれた覚えのない声音。
知らずと叫んだ己の返事は声の相手に届くはずもない。
父の身に触れることが叶わないのなら。
せめて、その温もりを知りたい。

「父さんに…すごく会いたくなった」

静かに握り締めた手のひらに爪の痕が残る。
死んだ人間に会いたいなど、以前の自分なら絶対に言わなかったのに。
ただ聞いてほしくて堪らない。
誰かへ、何より父親へ。
苦く悔しく湧き起こる寂しさに、身体中の血潮が激しく疼いた。

「…当たり前だろ」

途端ぶっきらぼうに何かを投げつけられ、視界が真っ暗に遮られる。
顔に纏わり付いた布らしきものを手でまさぐり、意味も分からず剥ぎ取れば。
それは自分が探偵として、普段から愛用しているグレーの上着だった。

「…ったく、いつもの威勢はどうしたんだ」

卓上に置かれた煙草とライターを手早く内ポケットに忍ばせながら。
名残惜しそうに煙を吹かし、最後に口に据えた一本を灰皿に擦り付ける。
そんな村雨の行動を横目で窺い、乱暴に手渡された上着を軽く羽織れば。
その堅い着心地に気を引き締められるようだった。
窓から洩れる暗闇の何処で蝉が鳴いている。
白昼の中から聞こえる騒がしいそれとは違い、一匹だけの音であったが。
夜も更けたこんな時に鳴くなんて、聞く虫も人間もいるかも分からないのに。
それでも自分にはその鳴き声が愛しくさえ感じられた。

「さて、外で所長らが待ってる」

支度は大丈夫かという問いに黙って頷いてみせれば。
村雨は窓のカーテンを閉め、立ち上がって明かりの紐へと手を伸ばす。
ふとその動きが止まって、男は目を細めた。

「まだら岩に行けば必ず何かが変わるはずだ」

静かな声音に熱が籠る。
考え、窺うように言葉を探り、視線は何処か遠くを仰ぐ。

「お前の親父が…思った通りの人間じゃないかもしれない」

突如その存在が明るみになったバギュームのこと。
その物質に関わったことで金田博士の身に何が起こったかということ。
今こそ父を知らなければならない。
夢でも聞き知った話でもない、科学者としての自分の父。

「…それでも、頑張れるな?」

「当然です」

強気な声を発し、眉をひそめる。
僕を誰だと思ってるんですか、と相手の言動に不服を返して。
最後にそっと、少年は悪戯っぽくにやりと笑ってみせた。

「少年探偵、金田正太郎ですよ」

父から与えられたものがある。
唯一確かな、金田の息子として自覚できるもの。
きっと自分はこれからもこの名前に執着し続けるだろう。
何故なら自分には同じ名を持つ家族がいる。
彼と共に在りたいと願う以上、こんなところで恐れるわけにはいかない。
鉄人と一緒に、父を信じて戦う。
暫くの時間こちらを見つめていた村雨が、にっと笑みを洩らして。
手に掴んだ紐を引き、二人を照らす光を落とした時。
部屋を満たした暗闇の中で、一匹の蝉の声だけが残った。












終 2008/09/07




DVD7巻のジャケット裏に書いてある「孤独の中から立ち上がれ」という一文がすごく好きです。
なんかカッコイイなぁって、思うのですよ(笑)
未だに正太郎の村雨に対する口調が分かりません…敬語?タメ口?(汗)


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