走り出せ。
今じゃないと駄目なんだ。








華の都を走る −はなのみやこをはしる−




















「ほら、以前に休みがほしいと言っていたじゃないか」

くつくつと見舞いの客人は笑みを綻ばせてみせ。
手に提げた果物の詰め合わせを机の上へと置いた。

「丁度良い休暇だと思えばいいだろう?」

清楚にまとまった病室を切り抜いたように開いた窓から。
桜の花びらが一片、二片と。
蒼い空に映えて。
迷い込んでは、白いシーツに色を落とす。
穏やかに流れるカーテンに、頬を撫でる風の息吹と。
春の日和に満ち足りた今日。
大塚の表情はまるで黒一点の染みを付けたように不釣り合いなものだった。

「バカ言え、犯人がまだ捕まっていないんだ」

苦いものでも噛まされたように眉をひそめて。
焦燥感の矛先は目の前の客人へと移る。
不躾な態度に不服だと睨みを利かせてみるものの。
相手は相変わらずの表情を浮かべ、改める気配すらない。
こんなやり取りはいつものことだ。
仕方なしにと溜め息をついてみせる。

「また意気がったりして、その豊かなお腹に響くよ?」

「はは、珍しい…嫌味か?」

「古い友人としての気遣いさ」

近くの椅子を手繰り寄せて腰を据える時に。
敷島が発した声音は一段と低く。

「…腹を銃で撃たれたんだ、暫くは安静にしないと」

眼鏡の奥から見据える鋭さに大塚は言葉を詰まらせた。
事が起こったのは五日前。
以前から目に留めていた容疑者らを首尾よく追い詰めたまでは良かったが。
油断をしたわけじゃない。
決して神経が鈍ったわけでも。
流れ弾が偶々腹部に当たっただけ。
だがそんな失態が犯人に逃げる機会を与えた。
己の責任だ。

「早く元気になることが今の仕事だよ、大塚署長」

近くにあった新聞紙を膝の上に広げて。
戸棚を探る敷島の声音にはいつもの穏やかさが戻っていた。
何だかんだ言っても、やはり心配を掛けたのだから。
喉まで出掛った言葉をそのまま黙って呑み込む。
確かに今日は雲一つない快晴。
悩むだけ損かもしれない。
暖かく流れ込む陽光にふと目をやれば。
窓辺から覗く見事な桜の樹は淡い花を耽美に散らし。
その姿を誇らしく、揺すぶる風へと任せていた。
ここが一番眺めの良い部屋ですよ、と。
以前に看護婦が言っていたのを思い出してみる。
微かな花びらだけが空を切って。
また一片と、それは眼を誘う。
なんて儚く美しい。
日本の華。

「…せっかくで悪いがこの状態だ、わしは遠慮するよ」

やっとお目当ての物を探り当てた敷島の手には、小型のナイフ。
そしてもう一方には赤く色付いた林檎を持っていて。
先の行動を読み取った大塚は微笑混じりに口を開いた。
そろそろ季節外れになる果実とはいえ、その鮮やかな赤は眩しく。
上品で甘酸っぱい香りが控え目に鼻を擽っていく。
魅惑の果実と唄われるそれは、味気ないこの病室に華やか過ぎていたが。
見舞いの品にと持ってきた籠一杯の果物に視線を走らせ。
敷島はお構いなしにと林檎の赤に鋭い刃を滑らせた。

「もちろん君に持ってきたものだけど、これだけは別でね」

微かだった香りが強さを増して。
白い果肉が姿を現す。

「林檎はこれから来る小さな客人にさ」

「客人…小さな?」

途切らすことなく皮を剥く様子に視線を引かれながら。
意味深長な相手の言葉に唸りを上げ、オウム返しに問い返すと。
ただただ笑みを零して仕方なく敷島は言う。

「正太郎君がね、君に話があるそうだ」

畏まった物言いからして内容が有り触れたものでないことは窺える。
どんな話だろうかと好奇心に頭を捻ってみせたが思い浮かばず。
それに昨日、見舞いに来てくれた時は特に変わった様子などなかったし。
まさに敷島が腰掛けているその椅子に座って、学校での勉強や行事の話をしていった。
学校が、楽しいと。
そういえばあの学用鞄も少し小さくなったかな。
入学した時も今のように桜が綺麗で。
真新しい黒い鞄を持った幼い姿は、背負っているのか。
はたまた鞄に背負われているのか。
あどけない姿にこの子を育てている自分の存在さえ、誇らしく感じたものだ。
今年も無事に学年が上がり、もう世話を焼くことも少ない。
寂しいことだが、これが親の心根というものなのか。
前々から自分に言い聞かせていたとはいえ。
やはり、あの子が可愛い。
例え本当の子でなくとも、己にとって大切な。

「…彼、学校を辞めるそうだよ」

何気無い素振りで言い放った男の言葉に目を見開き。
それまで夢見るような面持ちで想い耽っていた思考が瞬時に止まる。
果たしてどういう意味だろうか。
何とも言えず間の抜けた表情を直せずにいるまま。
口元を慌てさせ、発した言葉は一言。

「転校するってことか?」

野暮な質問だというのは相手の顔色で解る。
肩を竦め、敢えて唇を結ぶ敷島に訝しげな視線を注ぎながら。
疑心に満ちた胸の内が落ち着くと同時に沈みを増す。
学校を、況してや義務教育中の子供が放棄するなど聞いたことがない。

「…何を無茶な」

思い上がりか、確かな自信か。
それよりも先ず本気なのか。
これはすでに目の前の男が知っている状況から明白だ。

「突然君に話をしても無理だと思ったんだろうね」

「それでお前の所に行ったのか…」

「私から署長さんに、署長から官房長官に」

「そう簡単にはいかないよ」

全く賢いんだか。
こう変なところばかり敷島に似てしまって困る。
しかしそれとは別に時々恐ろしいほど重なる人物がいた。
敷島の影の奥に、もう一人。
父君の姿を。
真面目でいて突拍子もなく、一言で片付けるにはあまりにも長けた秀才。
微笑ましいことじゃないか、と敷島は笑っていたが。
こうも考えられないだろうか。
末路まで、似てしまわないかと。
あの綺麗で無垢な手を底無しの泥に染め。
全てを負い込むのではないか。
責任感の強さは父親譲りのお墨付きだ。

「…反対するのか?」

相手からの問いに無言の頷きを返せば。
愉快そうな面持ちとは対称的に溜め息をつかれる。

「だが彼は君と差しで話を着けるつもりだよ」

それを今更言うな。
この男は。
今の状況を楽しんでいるとしか思えない。
いや、寧ろ試しているのだ。
大人がどのように子供を諭すかでなく。
いかにして子供が大人を言い包めるか。
彼のしていることは飽くまで口添えであって。
単に現状を小突く、ちょっとした行為に過ぎないのだから。

「一応聞くが、学校を辞めて本人はどうする?」

「…彼が将来なりたいもの、知っているだろう?」

探偵。
物珍しい職業だ。

「だがしかし、何で今になって…」

ぴたりと敷島の手が動きを止めると同時に。
切り捨てられた林檎の皮が手元から滑り落ちる。
視界に飛び込んできたのは、真っ赤な色。
新聞紙の上で長く長く巻き合う様を見つめて。
ふと思い当たった。
あぁ、なるほど。

「…わしが原因なんだな」

赤い色。
生きるための色。
自然と脇腹が疼いた。

「勘違いしないでくれ」

丁寧に皿へと林檎を切り添える敷島は。
再度、笑みを零して。

「君を頼りにしてないって訳じゃないんだ」

歪な形で盛られた白い果実が、きらきらと光り。
言い聞かすような声は静かな空間によく通る。
機械に慣れ親しんだ男の手が林檎を切り分けるなんて。
何とも不思議な光景。
だがそのおかげで男と目を合わせなくて済む。
酷い顔をしているだろう。
例え彼の言うことが真だとしても。
失意は隠し切れない。

「昨日私の工場に来てね、こう言ったんだよ」

丁寧に丸められ、屑籠へと収まった新聞紙には。
まさに自分の関わった事件が小さな記事で取り上げられていて。
それより一面を飾ったのは昨年に最も世間を騒がせた事件の。
犯人が言った供述やら何やら。

「大人になってからじゃ遅い」

今から不安で、不安で。
仕方がないから。

「だから、認めて下さいって」

熱い眼差し、澄み切った声音。
精一杯に背伸びをして頭を下げる幼い姿。
事件そのものを怖がってるんじゃない。
正太郎君は。

「君の身に何かあって、失ってしまうことを恐れているんだよ」

最後に言った男の言葉には特別な重みが含まれているようだった。
病院に担ぎ込まれた時の記憶は定かじゃない。
あらゆる音が遠退いては聞こえ、感覚も痺れていき。
まどろむ意識が覚えているのは。
殊更に頬の白い、酷く青ざめた子供の顔と。
一途に握り締めてくれた小さな手。
震えの止まらないそれを、縋るように握り返したことは。
鮮明によく覚えている。
だからこそ逆に言えば自分も同じだ。
あの温かみが今も尚、この手に残ってしまっているから。
いなくなることが恐ろしい。
敷島の心境がどうであれ、やはり頷くことに躊躇いが起こる。

「あの子はまだ小学生…学ぶことも多いだろう」

「いや、彼は寧ろ学びすぎているよ」

徐に立ち上がり、窓の方へと歩み寄る敷島が発したものは。
一言だけでは理解し難いもので。

「知ってるかい?正太郎君があちらこちらの大学に通い詰めていること」

穏やかな風が男の髪を撫でて遊び。
影は溶けるようにゆっくりと揺れる。
いままで会話に気をとられ気付かなかったが。
いつの間にやら何処かで無邪気な子供の声が聞こえる。
きっとこの病院の敷地内で何か燥いででもいるのだろう。
敷島の目が追うように流れた。

「もちろん学校も行って…その放課後に」

そういえば学校帰りに警察署へ寄らなくなって幾分の日が経ったのか。
決して気に留めなかったわけじゃないが干渉もせず。
そんな理由だったとは、と。
驚きが溜め息となって唇から零れる。
敷島の視線がこちらに戻ったのと同時に。
外から届く子供の声も段々と小さくなっていった。

「自由研究の時にね、興味本位で知り合いの教授に紹介したんだ」

騒きの過ぎ去った空間と未だ林檎の香りが漂う中。
満開の桜を背負った男の表情はとても嬉しそうで。

「そうしたら教授にこう言われてね」

ここまで将来が楽しみな子は私の教え子にもいない。
普段お世辞を言わない寡黙な人だけに最初は耳を疑ったほどだと。

「以来、研究室や大学の図書館を使わせてもらってる…そういう面でも素質があるんだよ」

人の心を掴む何か。
あの桜の花のように咲き、酔わせるものが。
確かに探偵は時に人を欺かなくてはいけない職業だ。
正義のためだとしても人の心を疑わないといけない。
機転を利かせて良い人間関係を築くことが大切だ。
この平和な時にそのまま浸ることだって出来たはず。
叶うなら普通の子供で在ってほしいが。
敢えて危険を望むとは。
迷いが胸を締め、苦く。

「…正太郎君はわしの息子だ」

意識せず突いた言葉に。
知らずと手が真っさらな掛け布団の上で。
強く拳を握る。

「そして、君にとっても」

表情を強張らせたまま男は眉根一つ動かさず。
ただこちらを見つめるだけ。

「そうだろう?お前が研究しているロボットじゃない」

血の通った人間。
無責任な想いで触れ合ってはいけない人。
愛すべき存在。
本当に小さな手だった。
小さかったけれど、瞼が痛み。
胸が熱くなった。
手を握り返したあの時にきっと、自分は何かをもらってしまったんだろう。
消し去ることなど出来ない。
尚も身体に残るあの感覚、心の流動。
ずっと、ずっとこれから先。
与える立場とばかり思っていたのに。
それは大きな間違いであって大人の傲慢だ。
桜色の粒がひらひらと舞い、いくつかが踊るように迷い込んで。
漂い落ちた花びらを指先で撫で、湿りを含んだ表面が肌を擦る。
入院している期間、その姿を楽しませてくれた樹も少しで見納めだ。
全てが散った後、枝は青葉で色付いていく。
あの桜の樹にしてみれば。
正太郎君はほんの小さなつぼみなのだ。

「…なら逆に言わせてもらうけど」

肩に舞い落ちた花びらを手に取り、敷島は口を開いて。
厳しい声が凛と響く。

「君は正太郎君にとって何なんだ?」

手元から再び風に飛ばされる淡い色はこちらに届くことなく床に落ちて。
清楚に整った男の靴近くを転がる。
冷たい視線だ。
無理強いなど通用しない、断固とした目。

「…父親だと、そう名乗るつもりかい?」

言い放たれた言葉に、まるで蛇に睨まれたかのような。
たった一言が尾を引いて耳にこびりつく。
彼の父親。
確かにあの子は望むことなく。
否、自分自身がその立場を望まなかった。
すでに大きな存在が己の前に立ち開かっていたのだから。
終戦してまもなく、彼の境遇を決めることとなった時。
全てを偽り養子として育てるべきだという一つの意見が挙がって。
それでも。
最後の最後まで頷くことは出来なかった。
一時はあの子の父親になることも考えたが。
もしそうなってしまえば。
自分が父親だと名乗ってしまえば。
金田博士の想いはどうなってしまうのだろう。
どれほど会いたかったか。
どんなに触れたかったか。
そして、父と呼ばれたかったのか。
我が子に届くことなく、知らされることもなく。
それは正太郎君の中から消えてしまう。
あまりにも酷ではないか。
声を張り上げ、真っ先に反対して。
幼い赤子を抱き上げたのは紛れもない、自分だったじゃないか。

「…大塚、君が言った言葉だ」

この子に名を残そうと。
父親と同じ姓と、父親に与えられた名前。
金田を名乗れるただ一人の人間であるように。
想いを受けとれる名前を。
金田正太郎。
物心が着くずっと幼い頃から彼に言い聞かせていた言葉があった。
自分の名前を、大事にしなさい。

「あの子は、私たちに父親を求めることが出来ないんだよ」

真っ蒼な空に浮かぶ桜を背にして。
敷島の表情は寂しげに微笑んでいた。



「…条件が二つある」

静止した空気を重い溜め息が乱し。
突然の切り出し方にも関わらず男は意味を悟った様子で。
驚いたような、満足気な緩みを洩らしながら。
ひしとこちらの様子を窺った。

「…許すんだね?」

「本人が望んでいることだ」

何より強く、恐れることなく。
彼が願うのであれば。

「わしでは妨げることが出来んよ」

自嘲気味に笑ってみせる。
結局は目の届く場所に置いておきたかったのかもしれない。
傍にいたからこそ過保護に心配して。
まだ早い、まだ早いと。
本来なら一番最初に理解すべき存在なのに。

「一つは、何かあったら先ずわしに連絡をすること」

何所かで気が付いていて。
でも子供故に決めつけて。

「もう一つは、一通りに護身術を身に付けてもらう」

段々と離れていく手を必死に掴んでいたのは自分の方だ。
焦りと不安とが交錯し、耐え難く。
もし彼が探偵になることに了承すれば。
危険に晒された時、それは己が与えたも同然。
きっと自分は後悔する。
問題は、それでも先へ進めるか。

「…それだけかい?」

敷島は瞬きを繰り返し、意外そうに問い掛けて。
そんな姿に黙って首を頷かせる。
足りないものを挙げるとすれば彼の方でなく、この自分の決意。
すでに時は満ちていると言葉に添えるだけのこと。
そうだ、決して早くはない。
充分じゃないか。

「わしにはそれ以外に思い浮かぶことがないよ」

陽が傾き始めた午後の昼下がり。
病院の敷居を跨いで、無邪気に騒ぐ子供たちの脇をすれ違い。
一人の少年が走り抜けていく。
小走りに病院内を駆ける幼い足音がこの華やいだ都に響く日は。
ここからもう少し、先の話。











終 2007/02/12




正太郎君が自分の名前を名乗る姿ってすごく良いなぁと思うのです。
父親に与えられたからこそ、ずっと大切に使ってきたんだなと。
突然やってきた鉄人と同じ名前を名付けられてたって知ったら、やっぱり怒るんじゃないかなぁとか。

正太郎自身には学校に行く義務がないので後見人の署長さんが何とかすれば
学校に登校しなくても大丈夫!という安易な考えじゃ駄目でしょうか…(汗)
とりあえず敷島のずるい大人っぷりが出てれば満足です



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