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雪組 宝塚バウホール公演
ささら笹舟
−明智光秀の光と影−
観劇日 | 2000年5月3日 |
観劇時刻 | 午後2時30分の部 |
観劇場所 | よ列中央 |
ささら笹舟
−明智光秀の光と影−
谷 正純 脚本・演出
今回はかなり腹が立っている。すでに観劇から10日以上経過していても、思い出しては腹が立ってきて仕方がないほどだ。一体、この谷正純という演出家、何考えているのか。
まず全体を通して、台詞の量が多すぎる。「バッカスと呼ばれた男」に続き、ひとつの場面にこれでもかというくらいに台詞を押し込んでくる。それをこなすために皆早口で喋るから、聞いている方は大変だ。ひとつひとつの台詞を聞いていれば、ついていけなくなる。実際、何度か台詞を理解しようとしているうちに取り残されそうになったことがあった。
横一列に並んで香盤順に台詞を言う場面の多さ。これは植田ファミリーの悪癖のひとつだ。谷氏にしても、師匠の植田理事長にしても、どうしてこういった場面が多いのか。なぜいつも横一列なのか。ものすごく不自然に見えるのだが。円陣とまではいかなくとも、普通は中心となるべき人物(この作品なら明智光秀)のまわりに集まるような感じで会話するであろうが。いくら主君であるとはいえ、もし言うべきときは真っ正面から相手の目を見て言うであろう。左方3メートルの位置から、向かい合っていない家臣に「なぜ行動しないのですか!!」と言われたって行動する気になれるわけがない。もしかしたら、劇団内では、植田理事長の横に全員が1列に並んで話し合いをするのかもしれぬが(笑)、これは世間の常識とは大幅に乖離している。
主人公以外はどうでもいいといわんばかりの脚本。今回の脚本の意図は貴城けいを育てるためだと谷氏は「歌劇」等のメディアを使って宣言していた。確かに、その谷氏の意図通り、貴城けいにとっては演じ甲斐のありそうな脚本であった。しかし、それさえ実現されればどうでもいいという姿勢が感じられて仕方がなかった。だから貴城けいは出ずっぱりだが、他の生徒の出番は格段に減る。2番手といえる男役もいなかったし、ヒロインの出番も少ない。しかも、主な役所を専科生に振られているので、雪組若手の実力派が揃っていたにもかかわらず、それが生かされていなかった。未来優希や蘭香レアが一家臣の役というのはいかがなものか。
筋書きにも少々疑問を感じた。本能寺の変を、明智光秀の視点から描くというアイデアは面白いと思った。しかし、実際にはどんな脚本かと思えば、織田信長を暴君にしているだけではないか。多少は明智光秀の心中が描かれていたけれども、どちらかといえば織田信長を悪者に仕立てることによって明智光秀の行動を必然化させているような印象を受けた。正直言って、あまり説得力があるとは思えなかった。
泣かせの余裕のなさもいかがなものか。妻木幸四郎の許婚者が斬られ、幸四郎はさらに母を斬らねばならなくなった場面。ここは「影」の悲しみがうまく描かれていて、泣ける場面だったのだが、この後がいけない。暗転するなり織田信長が登場して物語を展開させていく。余韻というものが全くない。どんなに泣いていても、暗転と同時に涙を乾かして、頭を切り換えろというのはあまりに酷だ。もう少し、余韻を持たせた場面転換はできぬものか。
そして、何より腹が立って仕方がなかったのが、あまりに安易に登場人物を殺してしまうことだ。
上記の、幸四郎の許婚者と母が斬られる場面はそれなりに重みがあった。しかし、その後の登場人物の死には、何の意味も感じられない。
特に煕子や娘たちが自害する場面はひどすぎる。揃って唐突に自らを斬ってしまう。ただそれだけである。ただ煕子らが自らを斬り、死んでいくだけである。確かに煕子の自害は史実かもしれない。しかし、こんな死に方では、単に谷氏の泣かせの道具として死んでいくとしか見えない。
谷氏は勘違いしていないだろうか。観客は人が死ぬことに泣くわけではない、その死に様に泣くのだ。それが非業の死であろうと、大往生であろうと、その死に様に心を揺すられるものがあるから泣くのだ。
しかし、この作品では、煕子はただ死んでいくだけ。死に様など全く感じられない。こんな死に方は、観劇後の後味の悪さを残すだけである。
そんな中、貴城けいの演技は救いだった。光と影の演じ分けが見事だった。明智光秀と、影武者の違いはごく微妙なものだ。しかし、その微妙な違いをうまく捉えていた。明智光秀は明智光秀だったし、影武者は影武者だった。それでいて最後は、あえて本人と影武者との違いを出さない演技をすることによって、幕切れをミステリアスにしている。なかなかの役者ではないかと思わされた。
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