観劇記録のページ

花組 宝塚大劇場公演

野風の笛 / レヴュー誕生

観劇日時 2003年6月21日
午前11時の部
2003年6月21日
午後3時の部
観劇場所 1階20列下手
(S席)
1階22列中央
(A席)


野風の笛

谷 正純 脚本・演出


 早い……。物語の進展が早すぎる。
 観劇前、伊丹へ向かう飛行機の中で、あらかじめ東京のキャトルレーヴで買ったプログラムを読みながら予習をしていた。そして大体の筋や展開を掴んでから、観劇にのぞんだ。しかし、それでも初見では、あまりの早さに目が回った。
 ちょっと待ってくれ!と冒頭からいきなり思った。テーマ曲「風に舞い、夢に翔べ」の歌の早さ。早口言葉のように歌うから、歌詞が頭に入らなかった。そして本編が始まると、いつもの谷作品と同様に、やたら大量の台詞がポンポンと飛び出してくる。今回は特にすさまじかったのではなかろうか? 聞く方も大変だったが、言う方も大変らしく、春野寿美礼も轟悠も台詞を噛んでいた。
 そして、物語展開のスピードも恐ろしいほどに速かった。早口の台詞を理解しきれないままに場面が展開し、そして物語が進んでいくから、何度となく話の流れに取り残されそうになっていた。ようやく、ストーリーを理解できたのは、2回目の観劇の時だった。

 しかし、ようやく理解できたストーリーはといえば、いつもの谷作品だ。

 いっそのこと、ここから下を、谷作品の感想用のテンプレートにしてしまおうか。

 今回も、一人の自由奔放な男のために、何人もの人が死んでいくというストーリー。忠輝のために、何人死んだだろうか? 花井三九郎・主水正親子、豊臣秀頼と家臣たち、傀儡師軍団に柳生家の家臣たち。そして、それぞれの死のシーンからは、「人が死ねば観客は泣く」という谷氏の相変わらずの誤解が漂ってくる。毎度の言葉だが、観客は人が死ぬことに泣くのではなく、その人の死に様に泣くのだ。ただ殺してみればいいというものではない。
 しかも、そんな作品に流れている思想が「平和主義」だ。今回の作品でも、何度となく「争いはしたくない」といった台詞が出てきた。この矛盾、いい加減に直せぬものか。舞台から血の臭いが漂ってきそうなほどの、殺生や切腹などを見せて、何が平和主義なのか。
 そして、主人公は、自分のために何人もの命が奪われたというのに、俺は一人が似合うとか、暢気なことを言っている。主水正らの死は、忠輝にとっていったい何なのか? 「自分さえ生き残れたらそれでいい」という自己中心的思想しか感じられないのだが。平和主義と並ぶ谷作品のもう一つのテーマ「命の大切さ」は微塵も感じられない。

 せめて、忠輝が出家して、自分のために死んでいった人たちの弔いに生きることを決意するというラストにでもしてくれないと、後味が悪くて仕方がない。



レヴュー誕生
−夢を創る仲間たち−

小林 公平 原案
草野 旦 作・演出


 どこか今ひとつ焦点のぼやけた感じのするショーだった。レビュー作りの課程をショーにしてみたという。確かに、途中までは「メイキング・オブ・レビュー」を見ているような感じはあった。
 だが、この作品のオチはと考えると、「メイキング・オブ・レビュー」には行き着かない。
 「おかしい」と感じたのが、オーナーの夢の場面。レビューが終わると、スターやスタッフでなく、オーナーが讃えられる。これがどうも謎だ。舞台で讃えられるのは、まずはスターやスタッフではなかろうか? いきなりレビュー劇団のオーナーが讃えられるって?
 オーナーの夢から、ロケット、そしてフィナーレのパレードへの展開。ここでテーマが「メイキング・オブ・レビュー」から大きく逸脱していっているような、そんな感じがするのだ。そして、真のテーマは何か?としばらく考え込んでしまった。
 考えたあげくに行き着いた言葉は、この言葉。「逸翁賛歌」。突然出てくるシャルル・シドラーは、まさに小林一三翁である。結局、「メイキング・オブ・レビュー」を通して、「逸翁賛歌」をしたかっただけではないのか?と考えてしまう。
 何となく、「レビューの定番」を織り込みながら、安直に脚本を書いているうちに、こんな舞台が出来てしまったのではないか。僕はそんな気がする。

 そして妙に思うのが、草野作品にしてはオーソドックスすぎることだ。
 草野氏の作品といえば、「サザンクロス・レビュー」や「ヘミングウェイ・レヴュー」のような、変化球のあるショーの方が定番のはずである。今回と同じ、小林公平会長原案による作品「ON THE 5th」だって、1作トップコンビのお披露目兼サヨナラ作品だというのにいくつかの変化球が見られた。
 だが今回、作品名が「レヴュー誕生」ということを差し引いても、ずいぶんとオーソドックスなショーのような気がする。まるで、中村一徳氏の作品を見ているかのようなオーソドックスさにちょっと驚きを感じた。

 ただ、オーソドックスだが、フィナーレは結構気に入った。
 現役生の中で一番気に入っている遠野あすかの活躍も見られたし、いつになく豪華な感じのするパレードでよかった。



 脚本に関する感想ばかりが中心になってしまったが、両作品を通して、大きい疑問がもう一つ残った。
 スターシステムとはいったい何なのかという疑問。

 僕も元雪組ファンだから、舞台のセンターに轟悠が立っていることにはあまり違和感はなかった。去年の2月の東京公演まで、数え切れないほどに見ている光景だから。だが、一度トップスターから退いた者が、トップスターと同じ立場で舞台に立っている風景には違和感があった。
 しかも、扱いを見ていたら、明らかに春野寿美礼よりも上だった。
 春野寿美礼のトップ就任劇は、宝塚が改革路線にあることの象徴の一つだった。何しろ、前トップ匠ひびきを1作でやめさせて、トップに就任させたのだから。宝塚の若返りの第一弾としてのトップ就任のはずだった。
 その春野寿美礼をよりも、ベテラン轟悠が中心に立っている時間の方が長い。
 一応、フィナーレの羽根の大きさを二人とも同じ大きさにして、パレードで最後に大階段を降りるのは春野寿美礼にすることで、花組トップスターの顔は立てている。
 だが、どちらがトップスターだったかと聞かれれば、轟悠という答えになってしまう。

 こんな舞台も、改革路線の一つなのだろうか。
 だが、物議をかもしてまで就任させたトップスターを押しのけて、専科生に主演させてしまう。もう、スターシステムも何もあったものではない。
 結局、今まで宝塚が継承してきた、スターシステムとは、いったい何だったのであろうか。


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