(55)2006年を振り返る
(2006/12/30)


 2006年。個人的にはかなり低調な年だった。以前から抱えていたうつ病が悪化して、2回も休職をしてしまった。
 今は何とか仕事に復帰しているけど、病気が完全に治ったわけではない。病気と向き合いながら、自分にできる仕事を細々としている状態だ。
 いつ完全に直るかはわからない。もしかしたら、この病気とは、一生つきあわなければいけないのかもしれない。

 そんな年ではあったが、宝塚ファンとしての僕は、今年はさらに元気を取り戻してきた。観劇回数も増え、観劇することの楽しさを再び感じるようになっていた。
 僕の心の中の傷は決して消えることはない。けれども、あの頃の思い出を大切にしながら、今の宝塚に向き合っていこうという気持ちをようやく取り戻した。そういう気持ちの変化から、観劇回数が増えてきた。
 ところが、そういう気持ちの変化がいつ起こったのか、その時期やきっかけは、自分でもよくわからない。ただ、気がついたら去年よりも、宝塚に向き合える気持ちを取り戻していた。

 そんな今年、個人的に印象に残った宝塚の出来事を挙げてみたい。

 1.遠野あすか、激動の1年

 今年、最も大きい動きがあった生徒は、遠野あすかであろう。
 1月、花組生として、花組の東京公演に出演していたが、公演の途中で専科への組替えが発表された。1月の花組東京公演が終了するとともに、専科所属となった。
 この専科の意味するところは……? 僕は、戸惑いを覚えた。
 だが、専科での待遇は悪くはなかった。星組と宙組で続演された「コパカバーナ」に、娘役2番手のコンチータ役として、連続して出演。遠征ばかりで大変だったけれども、いつもと違う活躍を楽しめて面白かった(今だから言えることなのかもしれないが……)。
 そして8月、待望の発表があった。トップ娘役。11月に星組に異動して、トップ娘役をつとめることが決まった。好きな現役生のトップ就任は、この上なく嬉しいことだった。
 12月、星組新トップスター安蘭けいとともに、シアター・ドラマシティ公演「ヘイズ・コード」に出演。星組トップ娘役としての活躍が始まった。

 僕は気がつくと、遠野あすかの動きをほとんど追っていた。
 1月は花組東京公演に、初日から通った。専科にいたときは、星組と宙組両方の「コパカバーナ」を観劇するために遠征した。そして、12月の星組ドラマシティ公演にも遠征した。
 今年の観劇は、遠野あすかのいる花組で始まり、「専科生」遠野あすかの出る舞台を経て、遠野あすかのいる星組で終わった。
 日帰り遠征が多くて大変だったけど、終わってみれば楽しい思い出になって残っている。

 2.華城季帆、突然の退団

 華城季帆については、本当は今年の活躍ぶりに少し触れたかった。だが、12月26日に、それどころではないことが起きた。
 退団である。来年2〜3月の大劇場公演の集合日に退団してしまった。
 バウホール公演、新人公演、ドラマシティ・青年館と、今年はずっとヒロインを演じてきた。それだけの活躍をしてきたのに、年末になっていきなりの集合日付け退団。いったい、何があったのだろうか……。
 僕にとっては、遠野あすかに次ぐお気に入りであっただけに、残念な話だった。
 もう、退団してしまったから、素直に受け入れるしかないのだが……。

 3.貴城けい・紫城るい、1作トップに

 今年最も残念だった話が、宙組新トップコンビが揃って1作トップになってしまったことだ。
 宝塚に対して立ち直ってきた僕だが、二人の退団が発表されたときはかなり落ち込んでしまった。なぜ、1作トップにならなければいけなかったのか……。
 お披露目とサヨナラが同時に来る1作トップ。ファンとして、これほど淋しい話はない。
 僕も4年前に、贔屓が1作トップという経験をしている。その経験があるから、もう1作トップは出てほしくないと願っていた。それなのに……。


 残念なニュースが2つも出てしまった。
 それでも、今年は終わってみれば、久しぶりに宝塚を思いっきり楽しめた年だと思っている。
 不思議なものだ。贔屓の1作トップ以来、絶望の中で宝塚ファン生活を続けていたはずなのに……。


 何だかんだ言って、僕は宝塚で忙しく動いていた。そして、それは来年も続きそうだ。
 まず1月は、宙組の東京公演を初日から観劇する。1作とはいえ、トップになれた2人を祝福したいと思っている。
 そして、2月は、雪組の中日劇場公演と、花組の大劇場公演を観劇する。
 3月の終わりから4月、日程は未定だが、いよいよ星組の大劇場公演だ。安蘭けい・遠野あすかの大劇場お披露目。
 まだ、「完全復活」宣言はしていないが、それができる日が来るのも近いのかもしれない。


(54)今、改めて振り返る2002年
−贔屓が1作トップになったとき−

(2006/09/10)


 劇団に、ファンの声は届いていないのだろうか。
 4年前、ファンの大反発を招いた、1作トップコンビがまた誕生してしまった。
 宙組新トップスターの貴城けい、新トップ娘役の紫城るい。ともに大劇場お披露目公演で退団することが発表された。

 今回の退団劇は、2002年の雪組、絵麻緒ゆうと紺野まひるの退団劇の再現を見ているかのようだった。トップスターが1作退団となり、トップ娘役が添い遂げるかのように、1作退団を選択する。

 紺野まひるファンの僕は、2002年を思い出して、すっかり暗い気持ちになってしまった。




 忘れもしない、2002年4月18日朝。出勤するときのこと。
 宝塚ファン仲間からの連絡を受け、僕はあわてて報知新聞を買った。そして、芸能面をすぐに開く。そこにあった見出しは……、「絵麻緒ゆう退団。相手役の紺野も意志を固める」。
 職場へ向かう電車の中や、仕事の合間に、携帯電話のメールで宝塚ファン仲間と連絡を取り合う。すっかり大騒ぎになっていた。

 紺野まひるが、トップ娘役1作だけで宝塚を退団するという。絵麻緒ゆうが1作退団になり、これに添い遂げるように。
 いったい、どうして……。
 半年前にトップ娘役内定が発表されたばかり。そして、大劇場お披露目公演はこれからなのに……。

 いつも通りに仕事をしながらも、心はどこか揺れ動いていた。
 今考えると、色々な感情が入り交じっていた。嘘であってほしいという願い、いったいなぜ?という疑問、そして……、「せっかくトップ娘役になれたのに」という悔しさ。

 その日、帰宅して、僕は自分のページの掲示板にこう書いた。

タイトル

 こ・ん・の・ま・ひ・る


本文

 公式ページには、まだ発表されていないのですけど、
おそらく同時退団になるのでしょうね。

 不思議なのですけど、落ち込むところまで行っていないの
です。携帯にたまに入ってくるメールに、時折対応したり
しつつも、ふと気がつくと、いつも通り仕事をしている
自分がいる。
 好きになりすぎて、感覚が鈍ってしまったのでしょうか。

 完全に平穏かというと、さすがにそれは嘘です。
少しばかり、気持ちが揺れ動いている自分もいるのです。

 いずれにしても、今の心境をうまく表現するのはかなり
不可能なことです。

 一つだけ言えるのは、「大好き!」という気持ちを大切に
して、最後まで応援していきたいということ。この気持ち
だけは、かわりません。

 色々な思いはあったが、やはり最後まで応援しなければという気持ちだけは強かった。誰よりも、好きになった生徒だったのだから……。

 翌日、劇団公式ページで、絵麻緒ゆうと紺野まひるの退団が正式に発表された。
 それを知ったとき、僕は天を仰いだ。

* * * * *


 2002年5月24日。お披露目・サヨナラ公演「追憶のバルセロナ」/「On The 5th」の初日。
 僕は、大劇場の初日を見るために、仕事を休んだ。それがたとえ1作だけとなっても、トップ娘役になったことは嬉しい。だから、大劇場の初日を観劇したかった。
 観劇旅行に出かける前に、僕は掲示板に書き込んだ。

本文

 まひるちゃんがトップ娘役として、大劇場の舞台を踏む
日が来ました。同時に、これがサヨナラ公演のスタートでも
あるわけですが……。
 でも、やっぱりファンの夢が叶ったこと、そしてその日が
来たことは、それなりに嬉しいものがあります。

 ということで

  まひるちゃん、トップ娘役お披露目公演おめでとう!!


 ……大劇場への観劇旅行に行って来ます。

 この日、僕は絵麻緒ゆうファンのネット仲間と一緒に観劇した。
 観劇前、花の道のロッテリアで食事をしながら、同じため息をついた。「せめてあと1作……」。
 お披露目公演の初日が、サヨナラの初日というのは、やはり淋しかった。

 この大劇場公演、2回観劇旅行に出かけた。天が僕にご褒美をくれたのか、公演期間中の月曜日に、大阪出張が入った。この出張を活用して、僕は大劇場へもう一度行った。

 ただ、大劇場公演の千秋楽はあえて観劇しなかった。
 その理由は……、今考えると、ものすごい現実逃避だった。この公演がサヨナラ公演であるという現実からどうしても逃げたくて、大劇場の千秋楽から僕は目をそむけていた。

* * * * *

 2002年7月27日、28日。
 東京で絵麻緒ゆうのライブコンサートが雪組公演として行われた。このコンサートには、紺野まひるも出演。というわけで、28日は2回鑑賞した。絵麻緒ゆうファンの、宝塚ファン仲間と一緒に。

 このコンサートはとても楽しかった。嫌なことを全て忘れて、ぶん・まひるコンビの楽しい世界に酔いしれていた。

* * * * *


 2002年8月16日。「追憶のバルセロナ」/「On The 5th」の東京公演が始まった。
 東京公演は、ほぼ毎週末に1回は観劇した。そして、頻繁に入り待ち・出待ちにも顔を出した。
 ただ、ファンクラブに入っていたにもかかわらず、前楽まで会服は着なかった。「お披露目でもあるのに、なぜサヨナラ用の白い会服を着なければならないの?」という思いがあったからだ。我ながら往生際が悪い。
(往生際が悪くて、会服をわざと着なかったのに、入り出待ちに加わることを許してくれたファンクラブに、感謝しています)

 夏休みは、お盆期間をはずして取った。平日に、いい席で観劇するために。
 おかげで一度、S席ながら1階3列目で観劇できた。

* * * * *


 2002年9月22日。前楽。
 前楽は観劇しなかったが、出待ちには行く。

 少し早めに東京宝塚劇場の前に着き、出待ちのスタンバイの時間を待っているとき、今までにない感情が僕を襲った。

 明日という日が来ることへの恐怖感。

 どうしようもなく怖くて仕方がなかった。明日になれば、「追憶のバルセロナ」/「On The 5th」は千秋楽を迎える。そして、「雪組トップ娘役 紺野まひる」は過去の話となる。そんなのは嫌だ……。
 劇場前の路上で泣いてしまいたい気持ちを、僕は必死でこらえていた。

* * * * *


 2002年9月23日。
 ついにこの日が来てしまった。絵麻緒ゆう・紺野まひる、お披露目・サヨナラ公演の千秋楽。

 千秋楽のチケットは、ファンクラブにお取り次ぎをお願いしていた。人によってはお断りになるほどのプラチナチケットだが、僕はお断りにならず、チケットを取り次いでいただくことができた。

 ファンクラブの集合は、朝7時。いつもよりも早い。いつもよりも念入りな準備で、楽屋入りの時間を待つ。そして、ファンクラブ一同のかけ声で楽屋入りを見送る。楽屋入りの時の言葉は、「行ってらっしゃい!」だった。
 楽屋入りのあとはすぐに解散。集合の時からずっと着ていた会服をいったん脱ぐ。
 僕は日比谷シャンテの前に移動して、絵麻緒ゆうの楽屋入りを見た。

 楽屋入りのあと、券出し(ファンクラブがお取り次ぎのチケットを会員に渡すこと)の時間まで、僕は絵麻緒ゆうファンの宝塚ファン仲間と、東京宝塚劇場の近くで過ごした。

 券出しの時間になり、再び会服を着て、チケットの受け渡し場所へ。
 ファンクラブからチケットを受け取る。千秋楽用の特別なチケットケースに、ラストステージのチケットは収められていた。チケットケースには、「今日も1日 明るく頑張ります。まひる」と書かれていた。その言葉に、思わず涙腺がゆるんだ。

 最後の観劇。普段は会服を着ない僕も、今回だけは会服を着て観劇した。
 13時30分。千秋楽の緞帳が上がった。これが宝塚最後の舞台。いつもとは違う気持ちで舞台を見ていた。

「追憶のバルセロナ」第21場より

フランシスコ(絵麻緒) 「本当に行かなくていいのか」
イサベル(紺野) 「うん。私は、あんたと一緒にいる。まだ、何の役にも立てないけど」
フランシスコ 「そんなことないよ」
イサベル 「でも……」
フランシスコ 「イサベル」
イサベル 「うん?」
フランシスコ 「ずっと、そばにいてくれ。それがおまえの力だ」
イサベル 「うん、必ずそばにいるよ。そして自分のことのように、あんたを思ってる。誰かが星を見るように、きっと私たちのことを感じるよね
(主題歌〜幕)

 「追憶のバルセロナ」のラストシーン、イサベルの台詞に、僕は泣いていた。
 「誰かが星を見るように、きっと私たちのことを感じるよね」の言葉は、絵麻緒ゆう・紺野まひるの1作トップコンビの象徴だ。短い時間に、このトップコンビはたくさんの思い出をくれた。星を見るように、このトップコンビを感じるとき、二人がくれたたくさんの思い出が、輝いて蘇ってくる。

 「On The 5th」のパレードの前のデュエットダンス。
 紺野まひるがとても輝いて見えた。こんなにも輝いているトップ娘役になったんだと、僕は改めて感じた。そして、ファンになってから、今日のこの舞台までの様々な思い出が蘇ってきた。
 僕はまたこらえられなくなって、泣いてしまった。

 「On The 5th」も終われば、いよいよサヨナラショーだ。言葉に言いようのない寂しさを感じていた。
 「うたかたの恋」の主題歌とともに、緞帳が上がる。絵麻緒ゆうのルドルフに、紺野まひるのマリー。マリーの何と美しく輝いていることか!
 一目見ただけで、僕はこらえられず、泣き出してしまった。
 サヨナラショーで、最も泣いたのは、紺野まひるが「愛の輝き」(アンナ・カレーニナ)を歌ったときだった。「あなたへの想いだけが この生命(いのち)輝かせて 生きてる 生きてる……」。その言葉は、まさに僕の気持ちだった。紺野まひるのファンをしているとき、宝塚ファンとしての自分が輝いているように感じていた。

 最後は本当に泣きっぱなしだった。最後の挨拶でも僕は泣いてしまった。
 もっと、宝塚で紺野まひるを見ていたかった。それくらいに好きだったから。
 僕は泣きながらつぶやいていた。「大好きだよ」と。

 千秋楽の舞台が終わると、楽屋出のパレードだ。
 その日、東京宝塚劇場の前はものすごい人が出ていた。退団者のファンクラブは、見送る人が出てくるまでは、別の場所で待機。そして、「次、○○さん出ます」と声がかかって劇場の前へ移動。そして見送る。
 「次、紺野さんです」の声がかかって、紺野まひるファンクラブが、劇場前へ移動。
 程なく、袴姿の紺野まひるが出てくる。ファンクラブ一同で、かけ声をかけた。

 「まひるちゃん、最高!」

 その言葉は、僕の気持ちと一緒だった。僕が理想とする最高の娘役は、ただ一人。その名前は……

  紺野 まひる



 思い出話が長くなってしまったが……。これが、1作トップのファンだった僕の記録。

 振り返ってみると、切ない思い出がいくつも出てくる。あの1公演は思いっきり楽しんできたが、やっぱり1作は短すぎた。短すぎることに、淋しさを感じていた。
 こんな切ない気持ちを感じるファンが、もう出てほしくない。だから、もう1作トップだけは出さないでほしいと、僕はずっと劇団に願ってきた。

 だが、その願いむなしく、貴城けい・紫城るいの宙組新トップコンビが、1作退団ということになってしまった。
 あの切ない思いを感じるファンがまた出たのかと思うと、苦しくて仕方がない。


(53)掛け持ちファンサイトは難しい
(2006/05/01)


 「隠れ宝塚のひとりごと」も、開設からもう結構な年月が経過した。
 何しろ、このサイトが始まった頃は、東京宝塚劇場はまだ建替え前だった。それが仮設劇場のTAKARAZUKA 1000days劇場を経て、今は新しい劇場へと建替えられた。その新しい劇場も、柿落としからすでに5年以上経過している。

 その年月の中で、僕は一人の生徒にのめり込んでいった。言うまでもないことだが、紺野まひるである。
 ファンになった経緯や、ファン活動の記録などは、もうすでに何度も書いてきたので、ここでは割愛させていただくことにする。

 2002年9月23日、紺野まひる退団。僕は迷わずに、OGになっても紺野まひるを応援していくことを選んだ。宝塚ファンでありながら、OGの紺野まひるファンでもある。
 そして、この「隠れ宝塚のひとりごと」は、宝塚とOGの掛け持ちファンサイトになった。

 最初は掛け持ちファンサイトを軽く考えていた。「OG系宝塚ファンサイト」として運営していけばいいだけ。そう思っていた。
 そう軽く考えていたのは、自分の中での宝塚の比重が、一時期極度に低下していたことにある。絵麻緒ゆうのトップスター1作切り捨てと、紺野まひるのトップ娘役1作退団で傷つき、劇団に極度の恨みを抱いていた時期、これが長く続いたことが大きな要因だ。傷や恨みがひどい時期は、かなり僕と宝塚の間の距離が開いていた。その結果、自分の中での宝塚の比重が下がっていた。
 宝塚の比重が低かったから、「OGを追いかけながら宝塚も少々」といった気持ちで、このサイトを運営できるだろうと甘く考えていた。


 だが、時が過ぎていくと、周辺事情や、僕自身の気持ちも変わっていくものだ。

 まず、紺野まひるのテレビを中心とした活躍。気がつくと、紺野まひるは「元宝塚」の肩書きを持ちながらも、宝塚のOGとしては、ちょっと違った色の女優になっていた。そして、「このまま宝塚ファンサイトの中で語っていていいものだろうか」と考え込むようになっていた。
 特に今年は、1月から3月のドラマ(フジテレビ系「小早川伸木の恋」)での受けがよく、宝塚ファンではない、新しいファンを取り込んだ。そんな様子を見て、僕は「もう、紺野まひるは宝塚から切り離さなければいけない」と悟った。

 一方、僕自身の宝塚に対する感情も変わってきた。
 2002年のあの日から抱いていた傷や恨みもだいぶ和らぎ、宝塚を楽しんでいこうという気持ちが、去年あたりから戻ってきた。それにつれて観劇回数も増えてきている。
 その結果、ホームページを使って話したい、宝塚の話題が増えてきた。
 しかし、紺野まひるの話題を混ぜながら宝塚の話をして、宝塚ファンの方はどう思うであろうか……?

 宝塚ファンと、紺野まひるファン。今でも一部は重なり合っている。僕のような、宝塚時代からの紺野まひるファンを中心に。
 だが、宝塚ファンでも今の紺野まひるを知らない人が増えたし、紺野まひるファンで宝塚を知らない人はかなり多くなった。
 「OGを追いかけながら宝塚も」はもう難しい話になったのだ。

 今の僕は、紺野まひるのファンであり、そして宝塚ファンでもある。どちらも、これからもずっと、ネットの中で話していきたいことだ。
 しかし、二つの話題を掛け持ちで、同じサイトの中で扱うのには無理が出てきた。

 特定の宝塚OGと、現在の宝塚の掛け持ちファンサイトは難しい。
 これからどうやって、サイト運営をしていけばいいのか。
 今年に入ってから、色々と試みている。しかし、この試行錯誤はまだまだ続きそうだ。


(52)2005年の年末に
(2005/12/28)


 2005年も残りわずかになってきた。
 今年も色々とあったものだ。宝塚のこと、紺野まひるのこと、その他個人的なことも含めて色々と。
 毎年恒例になってきているが、今年も宝塚ファン+紺野まひるファンの視点で2005年を振り返ってみた。



 まずは宝塚。

 今年もまた1歩、宝塚へ復活していった年だった。僕は、宝塚ファンでいる限り消えそうにない傷を抱えている。だがそれでも、去年以上に宝塚と向き合える気持ちになってきた。

 その証拠が、観劇回数の増加だ。

 まずは花組。最近の贔屓組だけに、今年もかなりの観劇回数になった。1月は青年館で「天の鼓」を2回観劇し、さらに「くらわんか」(愛音羽麗主演)でバウホールへ遠征した。「マラケシュ〜紅の墓標」/「エンター・ザ・レビュー」は、大劇場2回、東宝2回、博多座2回と観劇。そして、日生劇場「Eranest in Love」ももちろん2回観劇。「落陽のパレルモ」/「Asian Winds!」はまだ大劇場だけだが、3回観劇している。また他に、愛音羽麗、望月里世の、宝塚友の会トークスペシャルにも行っている。

 そして、今年大きかったのは月組を見るようになったことだ。
 きっかけは彩乃かなみのトップ娘役就任だが、それでも今まで見ることの少なかった月組なのに、見てみようという気持ちになれたのは、やはり宝塚へ向き合えるようになってきた証拠であろう。東京宝塚劇場で「エリザベート」、「Jazzyな妖精たち」/「Revue of Dreams」を1回ずつ観劇している。さらに、大阪出張の機会にぶつけて、梅田芸術劇場「Ernest in Love」、バウホール「BurbonStreet Blues」(月船さらら主演)を観劇した。

 月組観劇を観劇するようになったことのほかに、大きな変化は博多座遠征であろう。東京から1000キロも離れた福岡まで行って、宝塚を観劇する。そんな気力は、宝塚に対して絶望している頃は全然なかった。
 博多座まで来たとき、「よくここまで復活できたものだ」と感じたものだった。3年前は、東京公演でさえ見る気力をなくしそうな危ない状態だったのに。

 花組・月組の他では、星組公演を1回観劇している。「長崎しぐれ坂」/「ソウル・オブ・シバ!」の東京公演。
 星組は花組ほどでなくても、毎年細々と観劇している。来年の公演も、すでに「ベルサイユのばら」の東京公演のチケットが確保済みだ。

 去年も書いているかもしれないが、癒えない傷を引きずりながらも、ここまで復活できたことは、何人かの宝塚ファン仲間に追うところが大きい。この人たちが僕の手を引っ張ってくれなければ、花組を時々見る程度のファンのままだったであろう。
 本当にファン仲間には感謝の限りだ。



 そんな今年、僕が宝塚に関して大きい出来事だと思ったことを挙げてみたい。

 1.新専科消滅

 もう6年も前、ファンの大反対の声の中導入された新専科制度。今年の、樹里咲穂と初風緑の退団により、消滅してしまった。

 新専科に対する僕の思いは6年間ずっと変わらなかった。上を目指して研鑽を重ねてきた生徒への、残酷な梯子外し。路線男役をいきなり路線外にしてしまったり、短命トップなどの残酷な方法で退団に追いやった。本当のトップスターになれた新専科生はごくわずかだ。

 それだけではない。ファン同士の人間関係も破壊した。同じ宝塚ファンであるはずの人たちが、贔屓の利害をめぐって対立し、喧嘩別れするようなこともあった。特に若手ファンと新専科ファンの対立は凄まじかった。
 また、1作トップに絶望して宝塚ファンをやめた人と、友達関係が途切れてしまうという、無念な思いをした人もいたのではないか。かく言う僕がそうなのだが……。
 お客様であるファン同士の人間関係を壊す。こんな滅茶苦茶な商業劇団、宝塚歌劇団くらいのものだろう。そして、阪急電鉄グループという、関西を代表する企業グループの一員であるという自覚に欠けた、あまりに残酷な行動だ。

 新専科は、絶対忘れることのできない宝塚の大罪だ。

 2.「Ernest in Love」上演

 梅田芸術劇場で月組が、日生劇場で花組が上演した「Ernest in Love」。宝塚もなかなかいい作品を見つけてきてくれたものだ。
 今年上演された作品の中で、最も気に入ったのが、この「Ernest in Love」だ。花組も月組もどちらもよかった。
 単純なようで実は濃く、そしてとにかく楽しい。面白いミュージカルだった。個人的にはかなりのヒット。DVDを両組とも買ってしまったほどだ。
 宝塚がまだ上演権を持っているのなら、どこかの組でもう一度くらい上演してほしいものだ。

 3.悲喜こもごものトップ人事

 個人的には結構嬉しいトップ人事があった。月組彩乃かなみ、星組白羽ゆりと、好みの娘役がトップ娘役になれたのは本当に嬉しかった。
 しかしその一方で、年末のトップ人事発表の際、遠野あすかがトップ娘役から落選。僕はかなりショックを受けたものだ。あれだけ活躍しているのだから、花か宙のどちらかに就任できると信じていたのだが……。
 意外だったのが、宙組の新トップスターが貴城けいになること。雪組育ちの、雪組の御曹司というイメージがあっただけに驚きだった。

 4.映像ソフトのDVDへの移行

 一般家庭でのDVDの普及はすごい勢いだ。かくいう僕も、自分専用のDVDレコーダーを、今年は購入した。
 そんな時代に合わせてであろうか。TCAの映像ソフトが、次第にDVDへとシフトしてきた。特に今年発売された映像ソフトは、従来のVHSビデオよりも、DVDの方が目立っていたような気がする。
 また、過去の映像ソフトも、DVDでの再発売が本格化する兆しが見えてきた。今年暮れの、復刻版DVD5点など、その象徴であろう。
 僕もすでに、映像ソフトはDVDを買うようになっている。また、過去にVHSで発売され、今後DVDになる作品でも、気に入っているものはDVDで買い直すつもりだ。
 まずは雪組「アンナ・カレーニナ」のDVDは買いたいと思っている。



 ところで、宝塚歌劇の出来事ではないとはいえ、宝塚の近辺で発生し、大きなニュースにもなったということで、この場を借りて挙げさせていただきたい出来事がある。福知山線(JR宝塚線)の脱線事故だ。
 4月25日朝9時18分。福知山線(JR宝塚線)の快速電車が、塚口−尼崎間のカーブで脱線。車両は線路沿いのマンションに激突し、多数の死傷者を出した。
 衝撃的な事故だった。ちょうどその前日と前々日に、観劇旅行に出かけていて、福知山線で、その現場も通過していた。しかも、別の区間ではあるが、事故の前々日に、「回復運転」で猛スピードを出している「207系電車」に乗って、あまりのスピードの速さに、恐怖を感じたばかりだった。
 宝塚大劇場への観劇旅行の時に、当たり前のように通る場所で起きたこと。事故の直前に僕の感じた恐怖が、現実となったこと。OGにも怪我人が出たこと。色々な意味で記憶に残る事故だった。
 改めて犠牲者のご冥福と、負傷者の回復を祈りたい。

 ちなみに、僕はあの日以降、関西地域内での移動には、JR西日本は避けて、大阪市営地下鉄や阪急電鉄を使用するようにしている。



 さて、話は紺野まひるのことに移る。
 このページをご覧になればおわかりの通り、もうすっかり、宝塚の現役生よりも好きなOGになっている。この感情は、おそらくずっと変わりそうにない。

 今年嬉しかったのは、久々にミュージカルへの出演があったことだ。2月に東京と大阪で上演された「NEVER GONNA DANCE」。 
 やはり宝塚時代からのファンとしては、どんな仕事よりも舞台の仕事が嬉しい。ミュージカルの方が嬉しいが、ストレートプレイでもいい。とにかく生の舞台で、直に活躍を見られることに至福を感じる。(多少、宝塚時代の紺野まひるのファンという気分が残っているのかもしれない)。
 今回のミュージカルでも、宝塚時代を思い出させるような歌とダンスが生で観られて、とても嬉しかった。残念ながら、1回しか観劇できなかったけれども。

 しかし、ミュージカルが終わって間もない春先、とんだアクシデントがあった。
 テレビドラマの撮影のために移動する船の中で怪我をしてしまった。腰部骨折。そのためにドラマを降板しなければならなかった。これはショックだった。今までかなり順調だった流れが、いきなり断ち切られたような、そんな気がした。
 そしてもう一つ、ファンである僕自身が情けないと思うことがあった。このアクシデントに動揺するだけで、何もできなかったこと。お見舞いの手紙の一つも書けばよかったのに、なぜか遠慮してしまい、書くことができなかった。

 ようやく本格的活動を見られるようになったのは、秋からのことだ。
 フジテレビのスペシャルドラマ「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」で主人公の妻の役で活躍。元気になった姿に安心したものだ。

 来年はまたかなり順調な状況だ。
 フジテレビの1月からの連続ドラマへの出演が決まっている。2月公開の映画にも出演する。「女優 紺野まひる」の活躍がまた広がっていきそうな、そんな期待を感じている。


(51)ブログで変化してゆくホームページ運営
(2005/10/22)


 ブログというものが、インターネットで普及していったのは、どれくらい前からであろうか。僕の記憶では、ブログという言葉に最初に接したのは、去年の春頃、情報処理業界向けの専門情報サイトでのことだったと思う。
 最初は、個人のホームページ運営に大きな変化をもたらすツールとは全く思わなかった。情報サイトの記事もヘッドラインを読み流すだけだった。
 しかし程なく、いくつかのポータルサイトや、@niftyなどの大手プロバイダがブログサービスを競うように提供しはじめた。その頃になってようやくブログが、個人で使うインターネットサービスの1つだということを認識するようになった。

 そして、去年の7月から僕もホームページにブログを取り入れてみた。ホームページの1コーナーとして。
 使ってみると、非常に便利なサービスだった。従来からのWebページとの併用で、ホームページをより柔軟に作れるようになったような気がする。
 何より便利なのが、更新のしやすさ。管理用IDとパスワードを用意しておけば、どんな環境からでも簡単に更新できる。例えば職場のパソコンを使って、「どうしても今伝えたい」ようなことを発信することもできる。出張の時でも、ノートパソコン持参なら、宿泊先から簡単に更新できる。また、あまり長くない記事なら、携帯電話からメールを送って更新することもできる。
 そして、小ネタが書きやすいこと。Webページを更新してまで書くほどでもない話も、ブログだったら比較的書きやすい。だから以前と違って、毎日何か書くことができるようになった。
 他にも便利な点は色々あるが、ブログの提供する様々な機能の便利さは、ホームページ運営のスタイルを変えた。1〜2週間に1度のWebページ更新とともに、平行運用のブログに毎日何か書き込むことで、より活発な運営ができるようになった。

 また、ブログは、ネット歴が比較的浅い人でも、情報を発信しやすいというメリットがあると思う。ポータルサイトにしても、大手プロバイダにしても、ブログの開設手続きはとても容易だ。そして、手軽に更新ができるから、簡単に情報発信ができる。
 実際、情報処理業界向けの情報サイトなど見ていると、ブログの開設者数は右肩上がりで順調に伸びているようだ。ブログの柔軟性、手軽さがインターネット利用者に受け入れられているということであろう。これからも、ブログ利用者はさらに増えていくはずだ。

 急激に普及し、成長してきたブログのサービス。まだまだ未知の可能性を持つ魅力的なものだ。
 とはいえ、従来のWebページにもまた違った魅力を持っている。そちらも捨てがたいものがある。
 僕はこれからも、従来のWebページとブログを平行させながら、ホームページを運営していきたいと思っている。従来のWebページと、ブログと、それぞれの力を最大限に生かしたホームページ作りができたらと思っている。



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