カウンタ
「yuko'sプロフィール」へ
「お問い合わせ」へ
「トッカータ物語」へ
「トッカータ物語」登場人物へ
「イラストギャラリー」へ
「お姉さまコワイ」へ
「サイレント・ベイビー」へ
「不能の手紙」へ
「カプチーノ カフチーノ」へ
「生きている夢」へ
「クロゼット閑話」へ
「ミランダ・パラダイス」へ
「京香さまの秘密」へ
「yuko'sあ〜と余録2015年総集編」へ
「yuko'sあ〜と余録2016年総集編前半」へ
「yuko'sあ〜と余録2016年総集編後半」へ
※これ以降はマンガ「生きている夢」をお読みください。
泳ぐ鶏 yuko's HomePage (C) Saito Yuko
2016年09月28日(水)交錯する思い
MyYahoo!が9月29日で終了するので、FeedWatcherに引っ越しした。
面白いニュース関係のRSSフィードをいくつか登録しているので、テレビのワイドショーよりは情報が速い。
挑戦を考えている「春コン」を観に行ってきたけど、「これならいけるかもしれない」という気持ちと「とても無理だ」という、自信と不安が交錯する。
入選者と、さらにその中からの受賞者の違いは何だろうと分析し、自分なりに掴んだものはある。
自信があっても10年チャレンジしても落ちている人もいると聞くと、そっち系の大学も出ていない私では考えが甘いかなと萎縮してしまう。
でも、キャリアを伏せて実力面だけで「春コン」を観ると、結局は実力の世界だから、と自信を取り戻す。
準備をするため、いろいろ調べているけど、規格がいまいちよくわからない。
また、思ったよりお金もかかるので、落選すれば金をドブに捨てることになるから、どうしようかと迷いが出てきた。
でも、自分の残りの人生と家庭の状況を考えると、今チャレンジしなければ、この先もっと難しくなるだろうから、どうせダメだとか思わずに、一度でもいいからチャレンジしてみればいい、という気持ちにもなる。
ショパンコンクールでは、幾度かの予選と、ファイナルはポーランドまで行く交通費と滞在費を考えれば、「春コン」にかかるお金のほうがはるかに安い、と思うしかない。
果たして、こんなんで大丈夫なのだろうか。
気持ちは揺れているけど、それはそれとして、とりあえず準備をすすめることにした。
大切なのは、自分の決めたゴールと期限に向けて最大限の力を発揮する、ということをやり抜くことだ。

2016年09月27日(火)暴言を発する心理
悪意のない口の悪さなのかもしれないけど、会話の中で何かを侮辱したり攻撃的な言葉を発する人としばらく過ごしているうちに、気がついたら自分も攻撃的な言葉を少し発するようになっていた。
不快なことを言われて、同じような次元の反撃を、つい、してしまっている自分に気づいた。
もちろん、反撃しても楽しいことは何もないし、反撃することで同じ次元に堕ちてしまうのが嫌だけど、言われっぱなしでは「こいつにはこのくらいひどいことを言っても大丈夫」と思わせエスカレートさせるだけだからだ。
「ああ、これはよくない傾向だな」ともう一人の自分が囁いた。
他人のせいにするわけではないけど、こうしてつられてしまわないよう、気をつけなければならないと思った。私としては本当は穏やかに過ごしたい。
でも、やめてもらうにはどう対処したらよいのだろう。
攻撃的なことを言う人というのは、ある種、病的な状態なのだと思う。
自分ではどうにもならない状況に置かれていて、それを別の人を攻撃することで憂さをはらしているのだ。
とはいえ、私はそんな憂さ晴らしに利用されるのはごめんだ。
何かで読んだ子供の躾の話だけど、ある子供がお母さんや幼い妹に向かってオモチャの剣でたたいたり殴りつけてきた。
その子供は、テレビアニメのヒーローのXXXXになりきっていたのだ。
その子供にお母さんは「XXXXは女の人や子供を殴ったりしないわよ」と言うと、その子供は攻撃をやめたという。
攻撃的なことを言って不快にしてくる人には「あなたのリーダーXXXXさんの前でもそういうこと言うの?」と尋ねてみるのもいいかもしれない。
XXXXさんには言えなくて、私には言う、というのは、親しさの表れではなく、私をバカにしているだけのことだからだ。
人は変えられないけど、私はノーは言える。でも、そもそも普通の人なら常識的には言わないことを言うのだから、遠回しのノーでは伝わらないのかもしれない。
おそらく、私だけでなく、他の人も同じ不快な思いをさせられているだろうから、これから様々な衝突で幸運を逃すことが増えて来るかもしれない。
それにより、いつか大切な人のために気づいて改善してくれるだろう、と願うのだった。

2016年09月26日(月)自分は絶対に悪くない
観月ありさ主演のNHKドラマ「隠れ菊」を、「一昔前の話だなあ」と思いながらも観ている。
嫌な人間がたくさん出て来て、その「嫌さ」加減が一昔前を感じさせるのだ。
ドラマの中でも、夫の愛人が「自分のほうが夫の事を理解している」とか「義母と仲がよかった」と主人公に夫と離婚させる、義父の愛人が義母に塩を投げられことを「ひどいことをされた仕返し」として主人公の着物に醤油をぶちまける、女性として侮辱された義母が怒ったら逆に義母に酒を浴びせて非難したお客、などなど、あきらかに自分が悪いのに自分を正当化するために相手を責めてひどいことをする人々。
率直に言えば、どうして主人公はわざわざそういう嫌な人間とまたかかわりを持つところに身を置くのだろうと思う。
ドラマの中では、その嫌な人々は主人公にとっていい人になっていくのだけど、それは夢物語だと思う。
現実には、嫌なことをした人が自分にとっていい人に変わることはほとんどない。
そういう人は、どんなに卑怯なことや間違ったこと、相手に嫌なことをしていても、自分が悪いとは思わないし、むしろ「自分がこうするのは相手のほうが悪いからだ」と思いたがったり、相手を悪者にすることで自分を正当化する。
だから、私はそういう被害に遭わないよう、そういう人とは距離を置くようになった。
こういうドラマのように人に誠実に接すれば改心してくれることを若い頃は信じたところもあったけど、結果は悪い人から悪者にされたり、利用されるだけで終わることを知った。人はそこまで善良ではない。
人は、特に大人は他人に注意されて直したり変わったりすることはない。
自分で変わろうと思わなければ、変わることはないのだ。
だから私も忠告はしないけど、そうすると今度は「冷たい」と言われる。
結局はまた「忠告してくれないのが悪い」という他人を悪者にする論理というわけだ。
そんな人の気に入る人間になんて、どこにもいやしない。
私にはそういう人を変える力はないから私は言わない。それは私の役割ではないのだ。
言わないとすると、どう言おうか、いつ言おうか、言ったら何を言い返されるだろう、そうしたら何て返そう、などとネガティブなことを考える必要もなくなるので、ストレスからも解放される。
そう考えるようになってから、今「隠れ菊」のようなドラマを観ていると、さっさと全部捨てて新世界に行けよ、と思ってしまうのだった。

2016年09月22日(木)バーチャル貧困層
先日、NHKの「健康格差」についての番組を観た。
確かに、食事で健康を維持するには、お金がかかると思う。野菜も果物も魚も、新鮮で質の良い物を食べようとすると高い。
また、いろいろな食品を採ろうとすると、外食のほうが安上がりの場合もある。
逆にいえば、今の日本の大都会で、サプリと外食に頼らず、自宅の食卓ですべて食物でまかなえるというのは、そこそこお金持ちの家ということでもある。
私もサプリは飲まないし、清涼飲料水も飲まない、健康補助食品のたぐいも食べない、ファーストフードやコンビニの食品もほとんど食べないで、普通に食物だけで健康を維持しているけど、それは、家族が庭で野菜を作っているし、地方で物価が少しは安いというおかげでもある。
ただ、いくら野菜や果物が高いからといっても、缶ビール1本飲まなければ魚一切れ買えるし、ペットボトルのジュースを飲まなければ、トマト1個は買える。
だから、やりくりの問題でもある。
一昔前は、サプリを飲むのがどこか都会的でカッコいいイメージがあったけど、今は普通に野菜を買って食べるほうがリッチで優雅な暮らしなのだ。
「リア充」ならぬ、「リア食」とでも言おうか。
映画「トータル・リコール」で、お金のない人はバーチャル旅行をしていたし、「マトリックス」で人間は夢の世界を現実だと思い込んで生きていた。
今は、現実に人と会って過ごすより、SNSで人と交流することに終始する人が増えているけど、それもやはり、現実に人と会って過ごすほうがお金も時間もかかるので贅沢な行為でもある。
だんだん、豊かでない人ほど、現実世界から遠のいて行く時代になってきたというのは、少し怖いものがある。
私はそんなバーチャル貧困層にはなりたくないので、少ないお金をやりくりしながらも現実世界をなんとか生きているのだった。

2016年09月21日(水)幸運の女神
風邪はようやくよくなってきたけど、まだ、横になると咳が強烈に出て夜はなかなか眠れない。
挑戦しようとしている「あること」は来年の3月までに準備しなければならないので、仮称「春コン」とするけど、ふりかえれば、不思議な巡りあわせだった。
当初私は、「春コン」よりかなり規模の小さい「桜コン」(仮称)を考えていた。
「桜コン」の期限は先週だったけど、AさんBさん夫妻と出かけている時から既に体調が崩れていたので、間に合わないだろうという気がしていた。
そしてやはり、風邪のせいで完全に間に合わないで機を逃してしまった。
Bさんと話した時、私は「桜コン」より少しレベルの高い「椿コン」を考えていたけど、自信はあまりなく、Aさんの努力の姿でようやく背伸びして挑戦してみようと思ったのだった。
Bさんはその世界にそれほと詳しくはないので、私が「挑戦する」と言ったとき「春コン?」と言った。
「春コン」は、音楽で言えば日本音楽コンクールのようなもので、最高峰だから、私は驚いて「とんでもない、無理無理」と反射的に答えた。
でも、それからそのことが頭から離れず、「椿コン」に挑戦するくらいなら、準備は同じだから、いっそ「春コン」に挑戦しようか、という思いが高まってきた。
あの時、Bさんが「春コン」と言ってくれなければ、私は「春コン」に挑戦しようなどとは思ってもみなかっただろう。
その世界にかかわっている人に話せば逆に、無理無理「桜コン」からにすれば?と言われていただろう。
風邪で「桜コン」に間に合わなかったこと、Bさんと話したこと、これらの偶然が重なって、私の運命が変わってきた。
Aさんとは10年ほどの付き合いだけど、この10年の間にAさんは随分躍進したと思う。
そんなAさんを支えるBさんは、幸運の女神なのかもしれない。
私もその幸運の女神に、偶然にも背中を押されたようだ。

2016年09月17日(土)挑戦宣言
先日AさんBさん夫妻と3人で遠出をして楽しんできたけど、出先で風邪なのか体調を崩し、医師には「回復に時間がかかるよ」と言われたこともあって、やわやわと過ごしている。
寝込むほどではないけど、少し家事をしたり何か作業をするとすぐ疲れるので、横になったりして休んでいる。ということでヴァイオリンも絵画も少しご無沙汰状態だ。
病気で何も出来ないとき、出来ることは考えることだけで、今までの事をふりかえったり、最近の出来事を検証したりなどするわけだけど、そういうときに思い立ったことが人生の大きな決断になることはたびたびあった。
今回も、病気中に考えるというよりは、AさんBさんと出先で話しているうちに、あることに挑戦しようという気持ちが高まり、Bさんにその思いを宣言した。
普通に身のまわりの人に言うと、マンガのときのように「そんなの無理だ」と言われるのがやる気をそがれるので、こういう決心は口外しないようにしているのだけど、誰かに宣言することで自分を追い込むことができる。
きっかけは、Aさんが今ある目標に向かってものすごい努力をしている話を聞いたので、私もそれに触発されて、あることに挑戦しようと思ったのだった。
私の結果はAさんより先に出るけど、良い結果を出してAさんにとってもわずかな励みになればいいなと思っている。

2016年09月07日(水)難しそうに聴こえる曲
おさらい会の曲はフランクのソナタの第3楽章にした。
ヴェンゲーロフの録画を観ると、すご〜く難しい曲を弾いているように見えるけど、楽譜はたった2ページで音符も少ない。
難しい曲を弾いているように見えるというのは、ヴェンゲーロフが技術的に困難そうにしているという意味ではなく、「さすがはプロ。私にはこんな曲、とてもじゃないけど弾きこなせないかもしれない。」と思わされる表現だからだ。
ただ弾くだけだと、音符は少ないし、楽譜の1/3は他の楽章と同じなので、さらうにはバッハほどの労力はいらないし、そもそも以前にもさらったので、弾けないということはないけど、他の楽章と同じ部分は、その楽章と同じ弾き方は出来ない。
第3楽章は、第3楽章特有の表現なのだ。
ちょうど、音色や表現力を強化しようとしている時期なので、この曲にしてよかったのかもしれない。

2016年09月05日(月)弾けそうにない
バッハの協奏曲BWV1052は弾ける気がしなくなってきた。
この曲をさらい始めて半月以上は経っていると思うけど、今の状態だと、おさらい会本番までに良くて弾くことがやっとかもしれない、という不安にとりつかれてきた。
そうだとしたら、危険が大きい。
そんな状態でこの曲を弾いてしまうのも、もったいない。
先回のルクーのソナタ第3楽章も、そういう意味では惜しいことをした。
今ならまだ曲を変更してもさらえるから、バッハは今回は見送って、別の曲にしようか。
今から用意できるとしたら、新曲より一通りさらってある曲のほうが危険が少ない。
でも、以前にさらったからといって、バッハのソナタ第3番第1楽章第2楽章を弾いたときも、不満と後悔が残ったから、必ずしも上手く行くとは限らないので油断できないけど、それでも新曲よりはまだ気持ちの面で余裕をもって弾けると思う。
ああでも、なんか悔しいなあ・・・

※これ以前は「総集編2016年」をお読みください。
(C) Saito Yuko 無断転載を禁じます。