私について


名前  新村龍也(Tatsuya Shinmura)
mail:shinmura?ashoromuseum.com(?の所に@を入れてください。以下の4点についてご理解ください。注:迷惑メールの方に入って、見ていないことも。。。)
@画像を使われたい方はご連絡ください。
A無償で提供しますが、私が納得できる画像にするために、調整に時間がかかります。
B一週間程度は普通にいただきます。当然もっと時間をいただくこともあります。
C個人の時間で対応しています。対応する時間が取れない場合は断ることもあります。


1980年 岡山県生まれ (1月10日)
1998年ー2002年 東海大学海洋学部海洋資源学科
2002年ー2004年 北海道大学大学院理学研究科
2004年ー2007年 盛岡市都南歴史民俗資料館 (指導員として)
2007年ー2010年 新潟県立自然科学館 (サイエンスコミュニケーターとして)
2010年ー    足寄動物化石博物館 (学芸員として)
2020年ー    北海道大学総合博物館(資料部研究員として)

【所属団体】

日本古生物学会
日本セトロジー研究会
日本有機地球化学会
化石研究会
SVP

【賞】

The 1st Science Illustration Contest  2010-2011  KOREA 主催:東亜サイエンス 賞:銅賞
タイトル:Sequential reconstruction of Aetiocetus polydentatus



博物館内にある私のアトリエ(ミラ)





私について

小学生時代

 化石が好きになったのはいつか?それははっきりとは覚えていない。 化石に関するもので一番古い記憶は、小学校1年の夏に行った北海道一周旅行だ。 北海道のどこかの海岸で(たぶん猿払海岸)、小さなかい貝化石がたくさん付いた大きな石が、オブジェの様に置いているのを見た。 その時の化石の雰囲気は今でも覚えている。その当時、積極的に化石が好きだとは言っていなかった(と思う)のだけど、今でも鮮明に覚えているということは、それなりに興味があったのかもしれない。 はっきりと覚えているのは、小学校4年生のころ、七夕の短冊に「考古学者になりたい」と書いたこと。その当時、「化石を研究する学問は考古学」と母親から教えてもらっていたので、考古学者と書いた。 しかしホントは古生物学なのだけど、まぁ仕方ない。古生物学は考古学よりもマイナーなのだから。。。 古生物学は理系なので、その後理系に進んだのだが、このころの短冊を知っているクラスメイトは「あいつは考古学をやりたいのに文系じゃなく、間違えて理系に行ったよ。」と陰で言っていたらしい。
 化石を職業として扱うためには、大学の先生か、博物館の学芸員になるのが一般的だとおもう。 でも大学の先生と言う選択肢は全く当時の私には浮かばなかった。それはたぶん勉強が得意じゃなかった、、、いや違うなぁ、 まったくの駄目だったからだろう。考えもしなかった。その一方で図画工作が大好きな男の子だったので、博物館の学芸員を夢見ていた。 なぜそうつながったか?それは小学生のころ見ていた学研の「化石岩石」と言う図鑑に、博物館で古生物を粘土で造形している様子が写真で紹介されていたからだ!自分も博物館でこんなことがしたいと思うようになっていた。 しかし当時の自分は知らなかった、日本の博物館はそう言った制作はほとんど行っておらず、行っているのは博物館が外注した制作会社と言うことを。。。


最近古本として買った学研の図鑑「化石岩石」。当時と表紙が違うけど中身はおんなじ。


フタバスズキリュウとヤベオオツノシカの復元が載っている。今の図鑑で復元がここまで書かれているのは、、、あるだろうか?

中学生時代

 私は岡山県の真備町に地域に住んでいた。 その辺りは花崗岩が風化してできた真砂土(まさつち)ばかりで、たまに黒っぽい水晶が採れるくらいだった。 しかし化石が好きだった自分は、何とか化石が採れないかと崖があれば見ていた。でもあるはずがない。 だって火成岩しかないのだから。。。化石が欲しい!でも化石が採れない!という思いは、化石へのあこがれをどんどん強くしていった。
 中学生になり科学部に入部した。科学が好きだったのだ。 科学部では玉ねぎの皮から色を抜いて布を染めたり、豆腐を作ってみたりと色々なことをやっていた。 そして偶然にもその顧問の先生は地質の大学を出た方で、夏休みには生徒を自分の車で化石採集に連れて行ってくれた。 化石が採りたかった自分にはとてもありがたかった。最初に採った化石は三畳紀と言う古い時代の二枚貝の化石だった。
 先生に教わるまで、化石は自分で探すものだ!と何となく思っていた。 まさか、化石の産出地が本に詳しく書いてあろうとは思いもしなかったのだ! 中学の時の先生から化石産地はそういった本で探すのだと言うことを教わった。 私はその教わった本を大型書店で買って、休日に父親に車で連れて行ってもらっていた。

高校生時代

 化石が好きだと言う気持ちは変わらないまま高校生になった。 夢も博物館で働くことのままだった。何とか進学校に入学することが出来、高校生としての勉強をすることになるのだが、中学までと違い、出来るやつらが集まっている高校なので、すぐに落ちこぼれになった。 特に国語が悪かった。私の文章の読みづらさは、この国語ができないと言うことと関係しているのだろう。 多分この問題は脳の構造から来るもので、勉強をしてどうこうなる問題ではないと、もう諦めている。でも仕方ないじゃないか。これが私なのだから。。。 こんな出来の悪い自分ではあったが、母親は常に積極的に行動するように、自信を付けさせるように教育してくれた。 塩水の電気分解をしても、タヌキやゴイサギの死体を拾って庭で骨を取るために解体しても、石灰岩を溶かすために塩酸が欲しいと言っても、液浸標本をつくるためにホルマリンが欲しいと言っても、 家の塀に木の実をつぶして作った紫色の液体で恐竜の絵を描いても、基本的に何も言わず見守っていてくれたし、協力もしてくれた。小中高と、母親は学校の先生に勉強ができない私について色々言われていたらしい。 しかし「あなたは出来る子とだと」暗示をかけるように言ってくれた。それだけではなく看護師だった母親は、「私は学生の時に人体解剖に参加した。 死んだら私の体を解剖するかい?」と本気で聞いて来るほどだった(ごめん、それはノーサンキューだわ。と自分は思った。。。)。 まぁちょっと変わった母親だった。自分の一部変態性は何でも許す親に原因があるのかもしれない。
 高校生になって勉強がますます忙しくなり、化石採集はできなくなっていった。

大学生(学部)時代(1998年〜2002年)

 大学の入試では大失敗をした。センター試験で全くいい成績が取れなかったのだ。 私はそのセンターでの失敗に絶望したが、浪人する勇気がなかったので、滑り止めとして確保していた私立大学に入学することになった。 「滑り止めの大学にしか入れなかった」という思いは、強く私を動かすことになった。「周りに合わせて普通に大学になじんではダメだ。 週に一回は何か大きな出来事を起こそう。」そんな気持ちで大学生活を送っていた。 面白そうと思ったら、違う学科の先生の研究室でも訪ね、学部生の時から積極的に学会にも参加していた。 しかし週に一回と言うのはさすがに難しく、それはすぐ挫折することになる。 それでも大学一年で乗り込んだ他学科の先生の所には大学生の間しばしば通うことになり、大学が持っていた博物館には入りびたるようになっていった。 大学博物館の先生には学生生活を通して地質を教わることになる。でも地質には正直そんなに興味が無かったので、サメの歯を採ったり貝化石を採ったり、もっぱら化石採集をしていた。 その先生経由で、近くの動物園での実習をさせていただいたりもした。と言っても動物の世話をしていたわけではなく、今後必要になるであろう骨を見せてもらっていたのだ。 学生であると言えば何でも許される力がこの言葉にはある!私はその言葉を利用して、近所の肉屋で豚の頭の骨をもらったこともあった。 すぐに「はいどうぞ」とはもらえなかったが、骨化石を勉強するために今の動物の骨が欲しいんだと、ながなが説得をして何とかもらうことが出来た。 最初はヤバい奴と思われたのだろう。「呪術にでも使うのか?」と聞かれた。確かに一般的にはヤバい奴なのかもしれないが、呪術には使わないかなぁ。呪術系は信じていないし。。。
 学部の間に学会にはしばしば参加したが、参加する同じ大学の友人はいなかったため、会場ではいつも一人だった。 学会はデスカッションをする場なのだが、その当時の自分にはそんなことができるわけもなく、他の有名大学の学生が集まって楽しそうにしている様子をちょっとうらやましく見ていた。
 学部の早いうちに、小さな学会で発表したりもした。内容は全く大したことが無いのだが、何とか他の人に追いつきたいという焦りが強く、大学博物館の先生にお願いをして発表させてもらったのだ。 小学会なので、まぁ今から思えば同窓会的な、和気あいあいとした楽しい学会である。博物館の先生も同窓会的な学会なので、こんな学部生が発表しても問題ないだろうと思ったのだろう。 発表の結果は散々だったと思う。懇親会では「先生に発表しろと言われたんでしょ?」「なんであんな発表したの?」と言われるほどだった。でもそれによって人脈ができた。 ある有名大学の大学院生と話ができ、「自分が居る●●大学に院でくればいいんじゃないか」と言ってくれたのである。 その当時大学院生だったその方は、世間話のつもりだったのだろうが、その時から大学院入学など、いろいろと頼らせてもらった。
 今は、理想通りの大学の学部に進学していたらどうなっていたんだろうと思うことがある。 理想通りの大学では周りに出来る学生も多いので、その中で十分だと思ってしまっていたかもしれない。 同じ大学の人とつるんで、新しい人間関係ができなかったかもしれない。 いや、行く大学は全く関係なく、ガツガツと何かをやろうと動いていたかもしれない。一体どうなっていただろう?

大学生(院生)時代(2002年〜2004年)

 大学院は比較的簡単に入学することが出来る。 その大学側の意図は全く知らないのだが、勉強できるから研究できる・この分野で生き残れるというわけではないのだと今は理解している。 学校の成績が良い人間はたくさんいる。だが、「そういった人たち=研究成果をどんどん出している・この分野に残れている」と言う関係には、この世の中なっていないようなのだ。 確かに学校の成績は重要な要素で、成績が良いことに越したことは無いのだけれども、それだけでは人間は判断できない。 どうも世の中は学校で教えられるよりも複雑にできているようだ。まぁそういう大学の事情も、おそらく、あり、私は一般的にレベルの高い大学に大学院生として入学することになった。 入ってすぐ感じたことは、確かに周りのメンバーは頭が良い!だった。当時の自分は、会話にもいちいちインテリを感じた。 「どこどこのチーズがどうのこうの」「飛行機で行ったの?機種は?」飛行機の会社は覚えていても機種なんて知らねぇよと思った。 学部時代の「今何時ですかを英語でどういうんですか?」と言っている学生がいる、海洋実習中の船内で火遊びをしている学生がいる大学とは全く違った!
 大学院では骨化石をすりつぶして、その化石の中から脂質を抽出するという、変わった研究を行っていた。 化石は無機物の塊のような印象を持つかもしれないが、その中には微量ではあるが有機物、特に脂質が何万年もたっていても保存されている。 この脂質は若干その生物が生きていた当時と形が変わっているが、その基本的な構造は残っているので炭素同位体比を分析することができたのだ。 それによってわかることもあるが、それを書いていくと長くなるのでこの辺りでやめよう。
手持ちの化石が少なかった自分は、分析系の研究を行うことになった。成果はすぐに出て、大学院生活の中で何度も学会発表をさせていただくことになった。 でもこの化石業界の現状をどんどん知っていく中で、化石を扱って就職することの難しさ感じるようになった。化石は基本的にお金にならない。 化石を扱って生きていけるのはほんの一握りの人材なのだ。そして周りには優秀な人間が多い。そんな優秀な人間でもなかなか就職ができない。 大学院卒業が近づくにつれてわかってくる博物館就職への高い壁と、周りの優秀な学生が一般企業を受けている現状に、小学生の頃から持っていた博物館就職の思いはどんどん小さくなっていき、私も一般企業への就職を考えるようになっていった。 大学に残りドクターへの道も考えたこともある。しかしあと三年大学に残るとお金の心配が出てくる。中卒の父親は大学院進学でさえも「学部を出てまだ大学に行くの?!」と驚いた。 確かにそうだ。私の家にはお金があまりない。それに加えて私は優秀ではないのだ。唯一あるとすればまだ辛うじて若い(24才)ということくらいだった。
 優秀ではなく、特に行きたい一般企業があるわけでもなく、熱い思いもなかった自分の就活が上手く行くはずがなかった。 その結果、不採用通知ばかり届くことになる。多くの企業説明会にもスーツで通った。 そして、そのある一つの企業説明会で話をされていた方の言葉が私の博物館への思いを思い出させることになった。 どこの企業説明会かは覚えていないが、その採用担当者は「思いがあるのならそれを大切にするべきで、自分を安売りしてはいけない。 思いもあまりないのに企業に入っても続かない。」確かこのような内容だったと思う。 まったくその通りだと思った。若さに加えて自分にもし何かあるとすれば、博物館や化石に対する長く持ち続けた思いしかない。その思いと時間は自分にとっての貴重な財産だと思うようになった。 それ以降、博物館に的を絞った就活を行うことにした。学部の頃の先生にも連絡をして、空きはないかとも聞いた。日本国内でどこが今募集を行っているかも調べた。そこでやっと何とか、岩手の民俗資料館に就職することができた。

岩手時代(2004年〜2007年)

 岩手の民俗資料館の手取りの給料は11万円だった。11万円では車を買うこともできない。当然家も建てることもできない。 任期は一年更新の最長5年と言う縛りもあった。こんな職場だから競争相手も少なく、畑違いの私を採用してくれたのだろう。 しかし就職したその年から転職をずっと考えていた。
 岩手では冬になると大量の雪が降り(当たり前)、通勤することが困難になる。 職場の近くにアパートを借りたかったのだが、山を少し上ったところにあるその資料館のそばには、団地はあれどアパートはない。 そこで仕方なく資料館から5キロほど離れた駅の近くにアパートを借りることになった。雪のないシーズンは自転車で30分くらいかけて通った。 冬になると自転車が使えない。早朝の出勤時間に間に合う、山に向かうバスがあるわけではないので、片道1時間30分かけて徒歩で職場まで通った。 雪が高く積もった日は大変で、一歩一歩にさらに時間がかかった。来年はここに居ない!と自分に言い聞かせながら、歩いたのを覚えている。
 この資料館では、基本的な博物館の運営を学んだ。博物館だよりの作成、夏休みの体験学習、バスを使った野外見学会、特別展の開催、さらには博物館の運営において入館者数を増やすことを求められると言う現状もである。 大学時代は博物館学などを受講し、資料の収集と保管をし、さらに調査研究を行ってその成果を展示するというのが博物館の使命だと教わった。そう、入館者数を上げることが重要だとは、確か教わらなかった。 でもどうやら現実は違うようなのだ。大学院を卒業し、少々頭が固くなり始めていた自分にとって、教わったことと現実との違いになかなかなじめなかった。 しかしなんだかんだと言っている余裕はないので、入館者数を上げることを意識し、業務を行っていた。
 非常勤の職員であった私には時間があった。この時間を使って研究活動を進めていた。しかし大学院で行っていた研究をつづけるのは困難だと気付かされる。 これまで簡単にできていた分析が、大学を離れると途端に難しくなった。そして大学にいると簡単にできた文献の収集もできなくなった。それでも大学院時代に出した分析結果を基に何度かの学会発表を行った。しかし、ネタは尽きた。
 岩手にはその当時著名な古脊椎動物学者が博物館の学芸員としていた。岩手に大学院を出て就職したら、とりあえずすぐにその人に連絡を取ろうと考え、就職して一二か月で連絡をして会いに行ったのを覚えている。その博物館は、自分のアパートからかなり距離がある同じ市内の博物館で、岩手にいる間に自転車で数回は通ったと思う。その後その先生とは2本の論文を書くことになった。ありがたいことである。
岩手での生活の間も常に転職を考えていたので、博物館の就職試験を受け続けていた。しかしなかなか通らない。それもそのはず、一人の募集に数十人が受けに来ているのだから。。。 そしてその中には、いわゆる優秀な学生が当然多かった。就職試験を受け続ける中で、この数十人の狭き門を突破するのは、自分には不可能だと思うようになっていった。 そして5年後には職がなくなってしまうかもしれないという恐怖と突破できない狭き門で、私の心はかなり疲弊していった。 いつも大体ポジティブに考えることができる自分でさえも、まったく光が見えない状態で精神的にかなり追い詰められていった。 深い絶望を感じ、昔の先生にメールで諦めたいと愚痴をこぼすこともあった。親にはどうして狭き門だということを子供だった自分に教えて早いうちに諦めさせてくれなかったのだろうかと思うこともあった。 でも今となっては、諦めさせるような事を言わなかった親に感謝したい。博物館で働いていると、「あなたにはできないから」と子供に言っている親御さんとを見ることがある。 例え明らかにできないことでも「あなたにはできないからやるな」と言うのではなく、「いいね!やってみよう!」といえる親になりたいと思う。
 常勤の博物館での募集は少なく突破はなかなか難しい、しかし非常勤の募集は多く、何とか次の就職先が決まり、岩手は3年で脱出することができた。


勤務していた資料館、自転車は当時の愛車!

新潟時代(2007年〜2010年)

 岩手の次は新潟の科学館で働くことになった。手取りの給料は17万円。任期は3年である。大分給料が上がったことと、とりあえず3年の猶予期間を得たことを当時は喜んだ。 科学館で働きつつも、大学院時代の先生と学会発表をし、岩手時代の先生にはクジラの解剖に誘われることもあった。
 このクジラの解剖は当時の私にとって衝撃的だった!その当時新宿に国立科学博物館の分館があり、そこで行われたクジラの解剖に参加し、初めて解剖学者がどの様に解剖するのか目の当たりにしたのだ。 筋の付き方を明らかにするために、筋の周りについている軟組織を丁寧にはがしていくことも衝撃的だったが、それ以上に衝撃的だったのは、 大きなクジラの腐った下顎を肩に担いで下顎が頭蓋にどうつながっているかを解剖している姿だった。凄まじい臭いを放つ腐ったクジラからは汁が頭に垂れる。。。 でも解剖学者はそれを気にすることなく解剖していく。一般人だったら絶対にできないだろう。私は、自分が変態だと思っていた。でも上に上がっていくためにはそれでは足りない。 優秀でないことに加えて、気持ちでも一般人、その他大勢の一人なんだとショックを受けた。どのような人間が他人から必要とされるのだろう? 上にとって使いやすい人間は、歯車のように、ダメになったら捨てることができる安い人材なのだろう。でも世の中には取り換え不可能な特殊な歯車もある。 そう言う特殊な歯車はサビが出ても新しいものに変えることができず、何とかメンテを行って使用していくしかない。社会の歯車になるのなら特殊な歯車になろうと強く思い生きている。 だからこそより変態にならなけらばならない!
 科学館での仕事は岩手時代よりも多く、次第に就職試験を受けることをしなくなってしまった。 それは結局3年の猶予期間を得ても数十人の壁を突破する方法を思いつかないでいたためと、他の生きる道を考え始めていたためだった。
 岩手と新潟の二か所の博物館で働き、周りの学芸員がどの様な待遇なのかもわかってきた。私が勤めた2館では入館者数が求められ、常勤の学芸員であっても、 公務員の異動と言うヤツで、博物館に就職できたとしても数年後には別の部署に飛ばされる運命にある。そして非常勤を使うだけのところでは、非常勤に未来はなく、 抜けられる人からどんどんと抜けて、新しい人が入ってきていた。この現状を知って、結局博物館も民間のイベント会社と同じで、さらに常勤になっても数年で他の部署に飛ばされるのなら、 それは私が考えていた「博物館で働く」のとは違うと考えるようになっていた。現代の博物館がこのような状況なら、むしろ博物館に使ってもらえる外部の人間になって、 博物館活動にかかわると言うのもありだと考えるようになった。
 本屋で立ち読みをした雑誌に、古生物の復元模型をより科学的に制作するアーティストが現在活躍しているという内容が書かれていた。そういえば私は子供の時は図画工作が得意で、 絵や粘土で動物を作っていた。もしかするとこの分野なら私がまだ活躍できるかもしれない。大学で古生物学を学び、それなりのものを制作出来たら、博物館と関係を持ちながら、 化石を扱いながら、自分の生命を維持することが出来る。そう考え始めていた。
 制作活動を行っているということは、科学館の勤務においても有利に働くと考えていた。科学館では展示解説やイベントの講師をする必要がある。私は化石を学んできたので、 必然的に化石関係のイベントや展示解説をすることが多くなった。その時にどうしても絵や模型が必要となるのだ。一般の方々は化石を見てもそれがどの様な動物のどこの部位なのかは分からない。 それを説明するのに必要になるのだ。しかしながら世の中に自由に使っていい復元画があるわけではない。このような時、自分が作ったものがあればどんなに楽なことか。 そのころはサイエンスコミュニケーションと言うものが流行っていた(今でもか?)。科学をどの様に分かりやすく伝えるかと言うもので、 私もそのサイエンスコミュニケーションの分野に魅了されるようになっていた。サイエンスコミュニケーションは発展が見込まれると感じていたからだ。 しかし確かに発展が見込まれるが、おそらく大学で科学を専攻した非常勤の博物館の職員が考えてしまう一般的な考え方なのだろう。そして残念なことに、 その多くがなかなか非常勤から抜け出せれていないとも感じた。もっと自分にしかできないものを開発する必要があるとも感じていた。 そして科学館で働きつつサイエンスコミュニケーションを行いつつ、制作活動を自宅に帰ってから行う!この二つはいずれ互いに融合し、自分だけのものができると考えた。
 科学館は常に来館者がいるわけではない。居ないときは展示場でマネキンのように立って、頭の中で様々なことを考えることができる。 このころ「2つのものを組み合わせたら何ができるのだろう?」とよく考えていた。現在でそれは変わらない。 大抵は面白くもないものを思いつくのだが、中には自分の中でヒット作が生まれることもある。それらは機会があればいずれ紹介できるかな?
さて、私は自宅での制作活動をつづけた。その過程で多くのアーティストとも連絡を取るようになっていき、制作物を学会にも持ち込んで学会発表もするようになった。 その様な活動を3年続けて、目立ってきたのだろう、足寄からお呼びがかかることになった。


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足寄時代(2010年〜)

 足寄には引き抜きのような形で来ることになった。30歳にしてやっと得た常勤の職である。 あとから分かって来たが、この年齢での常勤の職のゲットは早い方でも遅い方でもなく、おおむね標準的な年齢らしい。 例えばドクターまで上がった学生は通常卒業時には27歳になる。それからすぐに常勤の職にありつける例は少なく、修業期間として数年のポストドクターと言う非常勤生活が待っている。 非常勤生活は人によって長さが違い、この修業期間が終われば晴れて常勤となる。私にとって岩手と新潟の数年間は修業期間だったのだろう。
 足寄はその前身である資料館の時代から制作活動に力を入れていた。このような状況であるから私を必要としてくれたのだ。 足寄に来るまで、私は作品作りに対して力を発揮できていないと感じていた。足寄で私ができる事は多く、もしかすると国内でもかなり独創的な活動ができるかもしれない!お呼びがかかった時は心底ぞくぞくした。 古生物の復元とは本来骨格を埋め込んで作っていくことが理想とされる。しかし骨格が埋め込まれていない復元画や模型が世の中には沢山あったのだ。 そしてそれを博物館でさえも展示会等で使っている。科学を正確に伝えなければならない博物館で科学的に作られていないものも多いのだ。ここに私が入り込む隙間があると感じた。
 足寄に来て行った初めてのことは足寄産のクジラ化石の復元である。足寄産のクジラ化石を本来の復元の手法で復元しようと考えたのだ。 頭蓋骨の化石を参考に変形の無い頭蓋骨を造形し、それに肉を付けると言うやり方で、学会誌に口絵と言う形で投稿した。 ほぼ無名の私にとって、模型雑誌や一般の科学雑誌に載せるのは難しい。逆に学会誌は簡単に宣伝ができるいい広報誌だったのだ。この活動と並行して復元画の制作も取り掛かった。 造形物ができれば、それを写真に撮って、パソコン上でトレースするように絵を描けば、科学的にも問題が無い絵が描け、絵のトレーニングを大して積んでいなくてもそれなり物ができるのではないかと考えたのだ。 また、造形する前にある程度絵で仕上げておくことで、造形する際の参考にもなるとも考えていた。
 絵を描いたのなら賞が欲しいと新潟時代から考えていた。しかし賞に応募しても全くうまくはいかなかったが、 その当時韓国のサイエンスイラストレーションのコンテストに応募して、足寄産のクジラ化石の絵で銅賞をもらうことになった(そう、ここは少し自慢)。 せっかく賞をもらったのだから新聞に取材してもらおうと、大手新聞社に人物紹介で取り上げてもらった。このインタビューでは私の簡単な生い立ちを紹介した。 そして作品の制作方法について、返答に困ってしまう質問をされてしまった。「最近は3Dで復元画も描いている方も多いと思いますが、 なぜあなたは3Dで描かないのですか?」記者はカッコいい回答が返ってくると期待したのだろう。例えば、「3Dではまだ質感を出すことが難しいのです。だから私は。。。」とか、 「躍動感のある復元には3Dは不向きなのです。」とか。でもその当時の私は、なんとなくハードルも高そうで、ただ単にチャレンジしていないだけだった。 この取材の後に私は3Dについて詳しく調べることになる。そして3Dを行わない理由は全くなく、多くの方が3Dを始めている。私ものんびりとしていてはいられないと考えるようになって、導入をすぐに決めた。
 3DCGソフトはなかなか扱いが難しく、ある程度のものが制作できるようになるまでに1年ほどを要した。しかしどんどん私の体になじんで活動の幅を広げて行った。

 そして(あ〜、なんだか書くのめんどくさくなってきたなぁ。)なんだかんだで現在に至る。


当時賞をいただいた絵





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