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薔薇、このまま散らせますか?
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| カルトを含めて、『薔薇族』2003年6月号の編集後記を目にした人間は、かなりぶったまげただろうね。そこには伊藤文学編集長自らによって、こう書かれていたのだ。 「今月から薔薇族はページ数を減らしました。薄くなっても定価は同じです。そうしなければ雑誌を出し続けることができないからです」 余談であるが、カルトは『たのしい幼稚園』を起点に、軽く数百誌を購読してきた筋金入りの雑誌マニアである。だから、愛読誌の休刊(実質的には廃刊ね)というケースにも数えきれないほど遭遇してきた。そうした経験をふまえて言うなら、 「意味不明なリニューアル」 「いきなりの紙質劣化」 「唐突な店頭部数ダウン」 これらはいずれも休刊の前兆である。こうした兆候を見せた雑誌は、ほぼ例外なく余命数カ月の運命をたどったのであった。 通常、雑誌は最後の最後まで経営危機を読者に明かさない。ぎりぎりまでポーカーフェイスを保ち続け、最終号の巻末あたりでいきなり「じつは今号で最後なんですワ。てへへ」と告知するのである。だから今回のような、台所事情の苦しさを素直にカミングアウトしてしまうというケースは極めて珍しい。送り手と受け手の関係が密接な『薔薇族』ならではのものなのだろうか。はたまた、もはやなりふり構っていられないほど切羽つまっているのだろうか。 確かにね、『薔薇族』が売上的に窮地におちいっているという話は、あちこちから噂として聞こえてきてはいた。新興勢力の台頭というのも大きかろうが、やはり最大の要因は「電脳メディアの急速普及」であったと思う。インターネットは、やりたい盛りのゲイにとってはドラえもんにも匹敵する強〜〜〜〜い味方である。グラビアよりもはるかに過激な画像が、指一本動かすだけで取り出せてしまうし、それまでは「文通欄」に頼るしかなかった恋人(ヤリ友?)探しも、あっけないほど簡単にできてしまうのだ。 てっとり早さという点において、出逢い系掲示板に勝るものはないだろう。ネットと雑誌では、オーバーではなく、新幹線とカゴくらいの違いがあるのだ。文通欄の場合、自分の出したメッセージが人目に触れるまで早くても1ヵ月、締切りのタイミングをはずせば2ヵ月もかかってしまう。そこへさらに回送されてくる時間を足せば、メッセージ投函から実際に誰かと対面するまで、最長3ヵ月近くもかかってしまうわけだ。これは長いよ〜! あまりにも長すぎる。だから、インターネットへつなげる環境が整った者は皆、そちらへ移行してしまったわけだ。これは至極当然のなりゆきであり、誰を責めることもできない。 いや、ゲイマガジンの存在価値は、べつに文通欄だけではないはずだ! という意見もあるだろう。カルトも同意見である。ところが悲しいかな、大多数のゲイたちはそう思ってはいないようなんだよね〜。以前、新しく知り合った人間に何かの折に「オレはほぼ全誌を買ってるんだけどね」と言ったところ、 「えぇーっ、そんなに男がほしいの!?」 と驚かれてしまい、面喰らったことがある。 「いろいろな情報とか仕入れるために、っていうよーな買い方もあるんじゃない?」 と反論すると、ソイツはまるでパ◯◯ェー◯研◯所の白装束人間でも見るかのような目つきで、こうホザきやがった。 「キミって……なんか変わってるね」 ムキ〜〜〜〜〜〜!!!! いま思い出してもムカつくぅ〜〜〜〜〜〜っっっ!!!! でも、冷静になって考えてみたら、それが世間一般のゲイたちの共通見解なのかもしれないなぁ、とも思ったりして。まったくつながりのない複数の相手から同様意見を聞くたびに、否応なくそう痛感させられるのである。うむむむ、それでいーのか!? ちょっと脱線したね。話を『薔薇族』へと戻そう。「文通欄利用者の減少」以外の衰退要因として考えられるのは、「若い読者層の離脱」である。これはよく言う「若者の活字離れ」とはニュアンスが異なる。リブ的な気運の高まりに逆行するような『薔薇族』の在り方に、10代・20代が反発をおぼえはじめたのである。ぶっちゃけた話、確かに『薔薇族』時代遅れかもしれない。クローゼットな生き方を肯定するようなムードがいまだ根強く感じられるし(偽装結婚相手の出逢いコーナーとかもあるし)、ちょっとこのセンスはないんじゃないの〜、と思わされることもしばしばあったりもする。 が! それはある意味、仕方ないことなのだ。編集発行人である伊藤氏は異性愛者であるから、どうしてもソチラ側とのあつれきが生じない(無難な)方法を示唆してしまうだろうし、そもそも30年以上も主要メンバーが動いていないない雑誌であるから、ゲイが「隠花植物」と呼ばれていた時代の空気がいまだに生き続けているのだ。悪く言えば「時間の止まった世界」(笑)。しかしヒネクレ者のカルトには、そんな世間とのギャップが愉快に感じられてならない。まるで「サザエさん」を観ているような楽しさがあるのだ(笑)。若い編集者やライターたちが必死に取り繕っても取り繕いきれないアナクロさが、心地よいノスタルジーをもたらしてくれるのである(オレが昭和愛好家で、なおかつオッサンだからということもあるけどね)。 「晩節をこれ以上汚さぬ意味からも、伊藤氏にはできるだけ早急に業界から退かれることをお勧めいたします」 みたいな遠回しのイヤミを以前、誰かがどこかに書いていたが、カルトは全然そうは思わないぞ。どんな業界であれ、志や見解を異にする勢力が複数乱立(与党と野党みたいに)しているほうが面白いし、なにより健康的だ。それに、最初に道を切り拓いてくれた先達を「時代錯誤」の一言で切り捨てるような若僧どもも気に食わん。オシメを替えてもらった恩も忘れ、ひとりで大きくなったような顔をするな! って感じである(笑)。 「カミングアウトするべきだ」と訴える新しいゲイ、「隠しておけばいいのだ」と言い張る古いホモ、どちらが正しいともカルトは思わないけれど(だってケースバイケースだもん)、その両方が存在できるのが正常な社会ってもんではないだろうか。晩節なんてものは、いくらでも汚していいのだ。人間なんて、そんな立派な生き物じゃないんだからサ。一文字カルトは、『薔薇族』にジジイの悪あがきを期待いたします(笑)。 さて、最後にもう一言。伊藤文学編集長は、ヘンタイという巨大なカオスの中から同性愛を分離させ、日本初の商業雑誌を誕生させた偉人である。ある意味、社会で最も忌むべき存在とされてきたものを取り上げたわけであるから、創刊時の苦労は想像に難くない。パイオニアに対しては、まずは尊敬の念をはらうことを忘れてはならないのである。だから、できることならこの危機を克服し、生き残ってほしい。それには、多くのみんなの協力が必要なのだ。 |