私が、政治家を志した理由の1つに、ある本との出逢いがございました。
「ミケランヂェロ」という書物です。20代前半のことでした。
フィレンツェ自由都市の市民の、自由な政治参加というものにあこがれました。
それ以来、自らの政治参加を、構想してまいりました。
ミケランヂェロのダヴィデ像が、私の中で、「自由な政治参加」の象徴となりました。
いま、北朝鮮のいかれた指導者こそ、ダイヴィデが闘った怪物ゴリアである。
私は、ダヴィデの如くこの国の自由を護る。
以下に、その本より少し引用いたします。
(羽仁五郎著:ミケランヂェロより)
十世紀も後に
ミケランヂェロは、いま、生きている。
うたがうひとは、、「ダヴィデ」を見よ。
ダヴィデは少年である。かれが、怪物ゴリアをたおす決心をつげたとき、ひとびとはかれをとめた、が、確信をもったかれは、一本の石投げに石をもっただけで、ゴリアにむかって行った。
そして、少年ダヴィデはついに怪物ゴリアを倒した。
ミケランヂェロの「ダヴィデ」は、ルネサンスの自由都市国家フィレンツェの中央広場に、その議会の生面の階段をまもって、立っている。
身には一糸もつけず、まっしろの大理石のまっぱだかである。
そして左手に石投げの革を肩から背にかけ、ゴリアを倒すべき石は右手にしっかりとにきっている。
左足はまさにうごく。
見よ、かれの口はかたくとざされ、うつくしい髪のしたに理知と力とにふかくきざまれた眉 をあげて眼は人類の敵を、民衆の敵を凝視する。
中略
そのフィレンツェ自由都市の市民より選挙せられて成立していた最高政府シニョリアの政庁および議事堂パラッツォ・ヴェッキオの正面に立つミケランヂェロの「ダヴィデ」。
かくのごとく美しいものが、この世にあり得るのか。
これこそ、まことの芸術の限りなき美しさである。
中略
かつてフィレンツェ自由都市国家のシンボルたりしパラッツォ・ヴェッキオは、かさかさに枯れてしまったように、昔日の光りを失い、ピアッツァ・デ
ラ・シニョリアの広場はいまは捨てられたように、いたずらにひろいその石だたみの上を吹きわたる風が淋しく、うるわしかりしフィレンツェの街はやぶれうな
だれ、あの活気と毒舌とをもって鳴っていたフィレンツェ自由都市市民のすがたは今いずこかと思わせるが、ひとりミケランヂェロの「ダヴィデ」の裸身のみ
は、風霜をしのいで、いよいよ毅然と立っている。
いな、その後の動乱の際に、パラッツォ・ヴェッキオにたてこもった市民たちが、その正面を破って侵入して来ようとしたメディチ専制主義の手兵にむ
かって、窓から投げつけたベンチが、「ダヴィデ」の左の腕にあたったあとは、修復されたが、フィレンツェ市民といっしょに身をもってたたかって来たこの
「ダヴィデ」は、その失われた歴史をひとびとがどんなに忘れ去ろうとしようと、かればかりはそのかつての戦いを今のことのように、いな、将来の希望のよう
に、語ってやまないのである。
屈せざる歴史いな人生の希望スペランツァのために。
そして民衆の明朗をおびやかす如何なる怪物ゴリアをもついには倒そうとする理知の憤怒にもえたその顔、辛苦から力を得たその大きな手、わかわかし
さにみちて立つその両足、ああ、この純白の大理石にかがやく少年「ダヴィデ」の裸体こそは、真の芸術の何たるかを、むかしも、いまも、いつまでも、その前
に親しくむれあつまる人々にかたりかけてやまぬのである。
「ダヴィデ」をながむる人は、現代の人は現代の心のかぎりをこめて、この像をみつめることがゆるされる。
「ダヴィデ」を、ミケランヂェロを、近代的にあまりに近代的に理解すべきでない、などという凡庸歴史家たちに対しては、ミケランヂェロ自身が彼の言葉をなげつける
「十世紀も後になって見よ」と。
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