日本のアマチュア無線家たちが、
アラファト統治時代のパレスチナ自治区に対し、
その和平構築のため、いかに貢献したかの記録

                                                       (QTC-Japan.comより転載)

今なお混迷を続け、解決の糸口さえ見えないイスラエル・パレスチナ問題。パレスチナ自治区は、1993年のオスロ合意に基き、2000年までの約7年間、パレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長による統治が続いた。

日本のNGO、日本パレスチナ医療協会(JPMA)は、国際評論家、芝生瑞和氏(2005年3月に急逝)により、パレスチナ支援を目的に作られた小さなボランティア団体だが、今年、創立25周年を迎え、「25周年記念誌」の発行が企画されている。この度、当時、この会の運営委員だったJA1UT、林義雄に寄稿の依頼があった。 この小文は、芝生瑞和、元代表に協力して、日本のアマチュア無線家たちが、アラファト統治時代のパレスチナ自治区に対し、その和平構築のため、如何に貢献したかを示す記録である。

 
 日本パレスチナ医療協会(JPMA)
 
   
   
 
     
 
救急車が霊柩車に?

芝生瑞和代表の手引きで、私たち夫婦が初めてパレスチナ自治区、ガザを医療無線支援で訪れたのは1994年の12月のことだった。チュ−リッヒ経由スイス航空でテルアビブのベングリアン空港に着いた私たちを待っていたのは、ガザ・ナンバ−の付いた1台の救急車だった。

聞けばパレスチナ・ナンバ−の車はイスラエル領に入るのがなかなか難しく、極く少数の政府関係車両と数台の救急車が許可されているだけとのこと。一般の人たちは、国境の検問所内の敷地を500メ−トルほど徒歩で横断して、それぞれの国のタクシ−に乗り換えなくてはならないそうだ。

救急車に乗るのは生まれて初めての経験だが、とりあえず迎えの救急車に乗せていただいて、検問所のあるエレツへ向かった。車は、きれいに舗装されたイスラエル領内の道路を時速120キロで突っ走ったが、道路の方はよく整備されてはいたが、車のほうはだいぶガタが来たベンツの中古車で、「救急車が何時、霊柩車になるか判らないね」などと、一緒に来た日本人ボランティアたちと冗談を飛ばしているうちに、コンクリ−ト・ブロックのバリケ−トが立ち並ぶ検問所に到着した。

イスラエル軍の検問は日本人ということもあってか、心配したほどの厳しいチェックもなく通過、ガザ側の検問はドライバ−も顔なじみらしく「サラ−ム!」の一言でOK、日本から1万数千キロの旅を経て芝生代表の待つパレスチナ保健省の事務所に着いた。

日本人は世界銀行より早い

ひと休みする間もなく、保健大臣、ザヌ−ン博士の主催する記者会見に芝生代表と一緒に出てくれとのこと、外国人記者と地元記者の合計20人程の記者会見であったが、席上ザヌ−ン大臣が、われわれJPMAのボランティアを紹介して、「日本人は支援を約束したらすぐ、ガザに来てくれた。その点は(資金援助を約束しながら中々送金してくれない)世界銀行よりずっと早い」と。

この発言に地元の記者たちからは拍手が、西欧の記者は苦笑い、日本人のわれわれは、大臣のジョ−クが理解できずキョトンとした一幕もあった。 パレスチナの保健省は芝生代表が自治政府の人たちと協力して作った経緯もあり、その晩は芝生先生を慕って関係者の人たちが三々五々集まって大宴会が始まった。宴会といっても、イスラムはアルコ−ル忌避、植物の実から搾った赤っぽいジュ−スで乾杯、お酒の好きな芝生さんは何とも物足りない感じの様子だった。

パレスチナ国会へ土井たか子衆議院議長から 無線機のプレセント

翌日から保健省の救急センタ−で、ガザ中から集結して来た救急車に、JPMAのボランティアの手によって次々とトランシ−バ−が装着され、親局も中央病院に建設された。 芝生代表は我々の作業中もセンタ−に顔を出され、センタ−の庭に展示された、中東戦争に使われたという野戦病院用の木製手術車両などの説明もして下さった。

救急車の取りつけ作業が終了した後は、発足したばかりの国会へ案内して頂き、国会議長閣下に紹介して頂いたが、そこでも無線の話が出て、国会議員の安全のため無線機を警備車両に付ける話がまとまった。

日本へ帰国後、芝生先生と親交のあった当時の衆議院議長だった社会党、土井たか子先生からパレスチナ国会開会のお祝いとして10台の無線機が贈られ、これらの機材の取り付け、運用指導は、もちろんJPMAのわれわれがその後のガザ訪問時に行なった。

パレスチナ初の総選挙にJPMAが協力

その後も、ガザ南部のハ−ンユニス病院への救急無線局建設、ガザ空港の建設工事用無線網の構築など、JPMAによる無線連絡網の建設支援事業が繰り返し行われたが、特に記憶に残っているのは、1996年1月20日に行われたレスチナ自治政府による初めての総選挙に協力して、ラマラの選挙委員会本部を中心にガザ並びに西岸地区の各投票所を結ぶ連絡無線網の建設であった。

選挙の最中も芝生代表は終始我々と行動を共にされたが、結局この選挙でファタハが勝利し、ヤセル・アラファト議長が正式に初代の大統領となったのである。この時の、日本のアマチュア無線家の協力については、芝生代表、最後の著書、文春新書「パレスチナ」の209〜210頁に記録されている。

ラマラの選挙管理本部で JPMAから贈られた無線機を使って各投票所、 警備車両と連絡をとるパレスチナ人選挙スタッフ。 1996年1月20日、 パレスチナ自治政府として、 初めて立法議会と立法府の長(大統領) の選挙が行われた。芝生先生と16年来親交のあるアハメッド・シュテェイヤ選挙管理事務局長に JPMAからの贈り物として連絡用無線機が贈られた。選挙実施の3日前のことだった。右から芝生元代表、 シュテェイヤ事務局長、 筆者、 川口敦已会員 (JA4CX)

選挙後、アラファト大統領から、われわれ無線技術者に対し、労をねぎらうお言葉を頂いて感激したこと、また、日本の選挙監視団の団長としてパレスチナを訪れていた小渕恵三衆議院議員(後の総理)のレセプションに芝生先生とご一緒させて頂き、小渕団長とも言葉を交わす機会に恵まれたことなど、今でも鮮明な思い出として記憶に残っている。

J P MAのアマチュア無線家たちの協力に対し感謝の意を表してくれたアラファト大統領。 大統領を挟んで筆者夫妻、 左端 田沼健氏 (JA8CDG) ヨルダン川西岸地区、へブロンの市民病院屋上で緊急無線局のアンテナ工事完成後、パレスチナの国旗の前で喜ぶJA1CPS、石塚忠信氏とパレスチナ技術者たち。

実は、小渕恵三議員も、JI1KITのコ−ルサインを持つ、れっきとしたアマチュア無線家(ハム)で、国会アマチュア無線クラブの会長として既に日本では顔なじみの間柄であったのだが、小渕さんもこんなところで日本人ハム仲間に逢うとは意外であったらしく「何でお前らこんなところに来てるんだ?」とびっくりされたことを憶えている。

ちなみに、アラファト議長は私と同年同月の1929年の8月生まれ、小渕団長も同じ趣味仲間、「アッラ−のお恵み」によるのかは判らないが、私とパレスチナとは何か深い絆で結ばれているような気がしてならない。

ラマラの赤新月社本部の前で、日本人ボランティアが救急車に取り付けたアンテナを点検するJA3UB、三好二郎氏 アラファト大統領の実弟、 ファトヒ・アラファト赤新月社総裁を囲んで懇談する J P MA会員、右から、 小林利子会員、 総裁を挟んで石塚忠信会員(JA1CPS) 、 筆者夫妻(JA1UPA、JA1UT)

パレスチナから日本人として初めてのアマチュア無線運用


ハムと言えば、アラファト大統領の実弟、ファトヒ・アラファト氏はパレスチナ赤新月社(PRCS)の総裁だが、総裁からもJPMAの数度にわたる医療用連絡網の設営作業に対して感謝のお言葉を頂いたが、われわれがアマチュア無線の趣味を持っていることを知った総裁のご好意もあって、パレスチナ自治政府から、日本人としては初めてガザ地区からアマチュア無線の電波を発信する許可を頂いた。早速、われわれはハムの電波を通じて、当時約300万人いると言われた全世界のアマチュア無線家に向けて、一日も早いパレスチナ国家の自主独立をアピ−ルする貴重な経験もさせて頂いた。

初めてガザを訪れた1994年12月からざっと6年間、JPMAのアマチュア無線家たちはパレスチナの各所に無線連絡網を作り続けたが、一時は、あまり熱心に無線計画に熱中する私に対し「林さん、うちは日本パレスチナ医療協会なんで、無線協会じゃあないんだよ。」と冗談を言われたこともあったが、あれもこれも、何時も物静かな笑顔で周りの人たちを引き付ける一方、内に強い信念を貫き通す芝生瑞和代表のパ−ソナリティ故の数々の成果ではなかろうか。

ヤセル・アラファト議長、ファトヒ・アラファト総裁、芝生代表の相次ぐ早すぎる死

アラファト大統領はその後、2001年12月からイスラエル側により西岸地区のラマラに軟禁されていたが、2004年11月11日、体調を崩し、パリ郊外の軍病院で、75才で逝去、その後を追う様に、実弟のファトヒ・アラファト赤新月社総裁も、12月1日に71才で亡くなられた。

日本人アマチュア無線家によるパレスチナ自治区からのSSTV史上初運用のQSLカード。デザインされたアラファト議長の画像は、運用に参加したJA0CGJ、清水 孝氏がガザ地区から送信したCQ画像を、日本側でJA1FUY、川合信三郎氏が受信したもの。議長はこのデザインを大変気に入られ、カードに自らサインしてくれた。アラファト議長の署名入りのQSLは、世界に1枚しかない貴重なもの! 三好氏(JA3UB)が大阪のタクシー会社から集めてくれた中古タクシー無線機で連絡するパレスチナ・ガザの救急隊員。

芝生先生は、親交のあったリ−ダ−たちの相次ぐ死に落胆されたのだろうか、それから4ヵ月後の2005年3月5日に沼津の別荘で倒れ、くも膜下出血で急逝された。人生最高潮の59才の若さであった。

「アメリカよ奢るなかれ」(2001年5月10日、毎日新聞社出版)、「パレスチナ」(2004年3月20日、文春新書)などが最後の著作ではなかったかと思うが、今読み返してみても、国際情勢を的確に先見した新鮮な内容であり、まだまだ、頑張ってパレスチナの和平推進のために活躍して頂かねばならない方だったが、まことに惜しい人材を国際社会は失ったとしか言えない。
 
     
 
 
1994年より6年間、パレスチナ自治区に対する無線連絡網建設援助に係わった
JPMA会員及びアマチュア無線家21名の氏名(コ−ルサイン)
 
三好二郎(JA3UB) 木場義勝(JK1KHT) 野端秀憲(JO3XEQ) 石塚忠信(JA1CPS)
田沼  健(JA8CDG) 清水  孝(JR0CGJ) 斉藤幸男(JH1WBG) 多田芳夫(JS1QHO)
川西俊和(JA8RUZ) 川口敦巳(JA4CX) 本田欽哉(JH7DHS) 関  義則(JR1GDR)
林  茂治(JA1AFF) 根本紀正(JH1UBU) 野端邦子(JO3XER) 安  節子(JL1TRH)
坂井孝子(7M4CHT) 林  節子(JA1UPA) 林  義雄(JA1UT)
[順不同]
伊藤寧夫(JA1PBV) 当金哲也(7K1REG)
 

 
▼筆者紹介: 林 義雄(はやし よしお)▼
モ−ビルハム誌の「JA1UTの海外入門」を8年間(100号)連載されたほか、パレスチナ援助活動に対するJPMA芝生瑞和 元代表の情熱と業績に啓発を受け、同志15人と共にNGO団体「国際アマチュア無線ボランティアズ」(IARV)を結成、開発途上国への支援をライフワ−クとして取り組んでいる。定年退職後、JARL理事・関東地方本部長を10期20年間勤めた。IARVは現在、「認定NPO法人」。
 
[ご参考] パレスチナ友好訪問団 4,340 QSO by JA1UT  (2000年10月17日掲載)
       S07U/S07CRS,5T5U 15,000局にサービス! by JA1UT (2001年1月1日掲載)
 
当記事は ”芝生先生と私のパレスチナ” by JA1UT Updated 4/2, 2011を
QTC-Japan.comのご好意により、許可を受けて転載しました。
 
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