Novel 1

《最終決戦 数年後》

なだらかな丘の上から振り返ると、遠くに城と城壁を持つ大きな都市が広がる。帝都エンシャント。闇の台頭による数年前の戦乱と混沌とがもたらした破壊から立ち直り、かつてと変わらぬ偉容を誇っている。戦乱で、永遠に失われた人々を除いては。
妹の顔に浮かぶ憂いに気が付いたのか。傍らを歩くロイが優しく声をかける。
「バロア。見送りはここまででいい。」
「お兄様。」
ロイが、バロアと呼ばれた金髪の少女の肩にそっと手を置く。
「お前の顔を見に来ただけだ。少し元気がないようだが。辛いことがあればいつでもここを離れればいい。私達はいつでもミイスで待っている。」
兄の言葉に、バロアの瞳が一瞬潤む。だが、目を閉じたバロアは決然と首をふる。
「ありがとうございます。でも、私はここに残ります。」
「そうか。」
物分りのよい兄が、心配そうな眼差しを送る。肩に手を置いたまま、エンシャントに、そしてさらに遠くに視線を移した。
「・・・お前が仕えている皇帝代理ベルゼーヴァ・ベルライン。あの戦乱を境に人が変わったかのような振る舞いを耳にする。」
バロアの肩が、小さく揺れた。それに気が付いて、ロイが手を浮かせる。
「・・・そんなことはありません。私は・・・私はあの方をお助けすると決めたのです。」
「そうだな。お前は昔から一度決めたことは最後までやり遂げなければ気が済まないのだったな。」
懐かしい過去に、バロアがくすりと笑みを漏らす。ようやく表情を和らげたバロアに、ロイが微笑する。
「これから、エンシャントに戻るのか。」
「いえ・・・エルズに向かいます。命を受けているのです。」
再びバロアの表情に浮かんだ苦痛を、見逃すはずはなかった。それでも何も聞かずに、ロイは軽くバロアを抱きしめる。
「元気でいるのだぞ。お前には笑顔が似合う。」
「・・・お兄様も、お元気で。シェスター様にもそのようにお伝え下さいますように。」
兄の後姿が小さくなり、やがて木陰へと消えて行くのをじっと見つめる。姿が見えなくなった瞬間に、大きく溜息をつく。
悲しみと、苦しみを吐き出すかのように。


風の民の眠る墓地。緑に溢れ明るい陽光の差す道を過ぎ、階段を上り神殿を目指す。高い柱に支えられた荘厳な神殿にたどり着いたバロアは、ためらうようにしばし佇んでいた。風の神殿。千年を見通す力を持つ預言者、そしてエルズの指導者であるエアの住まう聖域。光と闇の最後の決戦までは、しばし訪れ未来を語る言葉に耳を傾けたものだった。だが、世の人々が平和と呼ぶ状態が訪れ、愛しい人の肉体に宿る悪魔に仕えることを決めた後は、ここを訪れたことはなかった。
バロアは顔を上げると、神殿の階段を上り始めた。

「久しいな。強き者よ。」
幼い容姿にはそぐわぬ、落ち着いた威厳のある声が迎える。
「お久しぶりです。」
バロアは、丁寧に頭を下げる。その様子を見守っていたエアが、無表情でバロアを見下ろした。
「・・・そろそろ来る頃だと思っておった。」
「千里眼のエア様に、隠し事などできるとは思っておりません。」
バロアの言葉に、エアが小さく笑う。
「無限のソウルの持ち主の未来を見通すことはできぬ。もっとも、かつての目の輝きを失ったそなたに無限のソウルの資格があるかはわからぬが。」
エアの何気ない言葉が、バロアの胸を刺す。俯いたバロアに、エアが続けた。
「廃城に棲むシャンマと海王が倒されたと聞く。決戦前に倒されたイシュバアル、エルアザル、アズラゴーザを合わせて倒されし竜は5匹。残るは翔王、竜王のみ。千里眼の持ち主でなくとも、そなたらの狙いは明らかじゃ。・・・いや、そなたではなく、そなたを操りし者の、と言えばよいのか。」
「私は、操られているわけではありません。」
「そなたの意思で、そなたが知らずに犯した運命の過ちを購おうというのか。運命に挑むとは、無謀なことじゃ。さすがは無限のソウルの持ち主と言うべきか。」
皮肉とも感嘆とも取れる無機質な笑い声。バロアが再び、頭を下げる。
「・・・そこまでお分かりでしたら、道を空けて頂けませんか。」
笑い声が止む。小さな体が一回り大きくなったように思えた。
「今のそなたであれば、翔王を、いや竜王をも倒すことはできるであろう。だが、かつてのそなたのように世界を救うことはできぬ。」
「・・・それは、わかっております。私は・・・。」
断罪の言葉を、頭を垂れて聞く。かつて。邪竜の洞窟の祭壇で倒れたゼリグの言葉が蘇る。魂無き力は、虚ろと。今の自分は、虚ろだと。誰よりも自分こそがそれをよく理解していた。それでも・・・。
「私は、自分勝手な人間です。私がお救いしたいのはただ一人・・・。」
「その一人のために、翔王を倒すというのか。そして、わらわを?」
エアの言葉に、バロアが驚いて頭を上げる。
「エア様、あなたと戦うつもりはありません。」
「翔王は、わらわの唯一にして最良の友人。そなたが彼を倒すというのであれば、わらわはそなたと戦わぬわけにはゆかぬ。」
「エア様。」
激しく頭を振るバロアに、エアが冷たく言い放つ。
「そなたも知ってのとおり、魔法で作られた我が命・・・惜しくもない。」
「・・・お願いです。エア様とは戦いたくありません。」
悲痛な叫びが、神殿に響く。エアが、バロアをじっと凝視した。
沈黙が、二人の間を支配していた。
やがて、エアが小さく呟いた。
「まことに、人の世とは不可解なものじゃ。光が闇を生むこともあり、闇が光を生むこともある。そなたの行いの行く末を見届けるのも悪くはあるまい。そなたとの友情に免じて、な。」
後ろを向いて、神殿の暗がりへと消えて行くエアに、深く頭を下げる。
「ありが・・とうございます、エア様。」
「だが、そなたを許すわけではない。・・・もう二度とそなたと会うことはなかろう。」
刃のような言葉を受け止めて、バロアは唇を噛んだ。あの方をお救いすると。そのためにあの男に仕えると。それを選んだときから、覚悟していたことだった。それでも。心を通わせた人々を裏切り、立ち去って行くのを見ることが辛くないはずはない。
だが、自らが選んだことなのだ。
バロアは、手に持った封魔の槍を強く握り締めた。


「・・・疲れた・・・。」
皇帝代理ベルゼーヴァ・ベルライン直属の近衛将軍バロア・ミイス。それが現在の彼女に与えられた称号だ。その彼女のために王城の一室に割り当てられた執務室の長椅子に、崩れるように倒れこむ。
確かに、エアの言葉に偽りはなかった。今の彼女であれば竜王にすら勝つことができるだろう。ましてや、翔王の戦いに敗れるわけはない。
戦いで受けた傷は、癒えるまでに時間はかからなかった。
それでも。
エアの残した言葉による心の傷は、癒えることはない。そして、自ら選んだ道のために、エアの最良の友人である翔王の命を奪ったという罪も。永遠に消えるはずはなかった。
ためらいがちに扉を叩く音に、バロアは身体を起こす。
「どなたですか?」
「・・・私。ザギヴよ。」
バロアは立ち上がると、扉を開ける。理知的な風貌をした長身で美しい黒髪の女性が、扉の向こうに立っている。すべてを打ち明けることはできない。それでも、同じディンガル帝国の将軍として数少ない心を許せる友人だ。
小さく微笑むと、バロアは室内に入るように促した。
お茶を入れてザギヴが掛ける卓の前に置く。
湯気が立ち上るカップに手を伸ばした様子を見届けて、向かい合わせに腰を下ろした。
「どうなされたのですか、こんな遅い時間に。」
問いかけるバロアに、ザギヴがカップを持ち上げる手を止めた。
「解任されたの。明日には、ここを離れるわ。」
「・・・え?」
突然の言葉だが、意外だったわけではない。強引で弱者を顧みない皇帝代理の執政に、ザギヴはしばしば異を唱えていた。対立が深刻化していたのは、最近のことではない。それでも表立っての不調和がなかったのは、ザギヴの賢明さと忍耐深さのためだったろう。きっかけが何であれ、その背景は想像に難くなかった。
「あの方は、昨日リベンダムとロセンの復興費用を全て軍備拡張に回すという決定をされたの。反対したのは私だけだったわ。殺されなかっただけ、運が良かったかしら。」
「ザギヴ様・・・。私・・・。」
「私のことは気にしないで、バロア。・・・それよりも、教えて欲しいことがあるの。」
ザギヴの言葉に、バロアが身体を硬くする。
「え・・え。私にわかることでしたら。」
「あなたにしかわからないことだと思うわ。バロア。あの方は・・・ベルゼーヴァ様は変わってしまわれたわ。先の決戦から。あなたはわかっているんでしょう?一体、一体何があったの?」
自分の言葉に煽られるように、ザギヴの語調が強まる。勢いよく卓に置いたカップが、乱暴な扱いに抗議するように小さな音を立てる。それには気付かぬように、ザギヴが身を乗り出した。
「あなたは何か知っているのでしょう?あの方は、どうしてあんなに変わってしまわれたの?あの方を、どうしたら元に戻すことができるの?私は、あの方をお助けしたいの。あなたも同じでしょう、バロア。」
目の前に自分を見るような気持ちで、バロアはザギヴの真摯な表情に見入る。全てを打ち明けたいという誘惑。
エンシャントからすべての住民が消えたあのソウルリープの日。ベルゼーヴァは、バロアを助けることを条件に、シャロームに自らの肉体を譲り渡した。もしも、などという言葉は全く無意味だ。だが、もしも自分があの日ベルゼーヴァを助けてあの都市から逃げ延びるだけの力があれば。そして、もしも自分がシャロームを解放さえしなければ。
自分を助けたベルゼーヴァを見捨てて、一人ミイスで平和に暮らすことなどできなかった。無駄かもしれない。一生、彼の精神と肉体はシャロームに支配されたままなのかもしれない。
それでも、シャロームに支配されたベルゼーヴァに仕え続けること。それが、彼女が選んだ道だった。
「ザギヴ様・・・。」
名を呼ぶバロアを、ザギヴが熱く見つめる。
だが、秘密を打ち明ければあの男は。ためらうことなく彼女を殺すだろう。
バロアは力なく首を振った。
「・・・ごめんなさい。・・・私には・・・本当にわからないのです。」
ザギヴが、小さく溜息をついて下を向く。
「そう・・・わかったわ。」
「本当に、申し訳ありません。」
「構わないわ、バロア。」
ザギヴが柔らかく微笑むと、立ち上がる。
「あなたは、私をマゴスから救ってくれた。・・・あなたを信じているわ。きっとあの方をお救いしてくれると。あなたはそのために、あの方のお側にいるのだと。」
ザギヴの言葉に、バロアが頷く。
「では、失礼するわね。夜分にごめんなさい。」
「いいえ・・・ザギヴ様の将来にソリアス神の加護がありますように。」
「ありがとう。私はあなたの方が心配だわ、バロア。」
「・・・ありがとうございます。」
優しい言葉が胸に迫る。
「さようなら。」
乾いた音を立てて、扉が閉まる。
すがるように扉に手を置くと、額を扉に押し付ける。
蝋燭が瞬く広い部屋に、たった一人取り残される。押しつぶすように迫る孤独と重圧に、乾いた溜息が漏れるのみだった。

「何も言わぬとは感心だ。」
不意に。部屋の暗闇から発せられた声に、バロアはぎくりとして体を震わせる。
「シャローム、様・・・。」
慌てて片膝をつくバロアの耳に、聞きなれた靴音が響く。闇の中から現れた細身で長身の男が、カツカツと小気味良い音を立ててバロアに近づく。
「秘密を知れば、かの女の命はなかった。あの美貌と能力は殺すには惜しい。超人類として覚醒するに相応しい器かも知れぬからな。」
かがみこむ気配が感じられる。伸ばされた長い指先が、バロアの顎を捕らえた。
「だが愚かだ。ベルゼーヴァを、我が子を救う?それが可能と信じているとは。」
顎を掴んで顔を上げさせる。ベルゼーヴァの肉体を支配するシャロームの視線が、バロアの視線を捉えた。
形のよい卵型の輪郭、涼やかで切れ長の瞳と、鼻筋の通った美しい顔立ち。その瞳は今、ぎらつくような不気味な輝きを放っている。狂気の光が、かつてよく知っていたはずの人物を別人のように見せていた。
「我が精神の中で、我が息子の精神は余と同化し、失われつつある。片鱗すら留めずに消滅するのも時間の問題だ。・・・汝はまさか、我が息子を救えるなどという戯言を信じているわけではあるまい?」
「・・・もちろんです。私は・・・シャローム様に心酔しておりますゆえ。」
シャロームの瞳が、探るようにすがめられる。その瞳を、バロアがじっと見返した。
「汝が、余に仕える理由など重要ではない。愛情、友情、信頼・・・弱く愚かな人間がもつ感情など、下らぬ無駄なものだ。余は、汝が我に忠実でありさえすれば構わぬ。余の愛しい裁きの剣よ。」
冷たい指先が顎の線をなぞると、指が不意に離れる。立ち上がったシャロームの注視を感じながら、バロアは再び下を向いた。
「明日は竜王の島に向かう。いよいよ未練がましく現世で老醜を晒す神代の遺物に、鉄槌を下す時が来た。この大陸から神を、魔を、そして愚かな愚民を追い払い、余が超人類の頂点として君臨する。素晴らしき世界だ。そう思わぬか。」
「はい。」
バロアの言葉に、もう一度探るような視線を送る。
「では、明日を楽しみに待つが良い。」
現れたときと同じく唐突に。シャロームの存在が、空気の中に消える。
後には、深い悲しみと苦しみの中に、バロアが残されていた。


竜王の島。うつつの身を持つ大陸最後の神が眠る、神秘の島。この島の空気は、いまや竜王の怒りの咆哮に、震え、張り詰めている。
「汝、虚無より生じ天地を照らせし原初の光よ、召還に応え我に力を貸し給え。ライトアロー。」
バロアの手元から放たれた光の球が、天空高く舞い上がる。
一瞬の間を置いて、目がくらむような光の筋が、竜王の身体を貫く。
ひときわ激しい怒りと苦痛の咆哮が、天空を裂き、大地を揺るがせる。
竜王の咆哮。
乱世を告げるという覚醒の咆哮。大陸を震わせたあの咆哮が、全ての始まりだった。
あの日、ミイスの神殿で。竜王の覚醒について語った兄の言葉を、あの頃は何も理解していなかった。ひっそりと彼女の一族が神殿で守り続けた闇の神器。破壊神の復活。乱世の幕開け。竜王の覚醒。
どれほど無邪気で平和な日々だったことだろう。
そうした日々は、何故永遠に失われてしまったのだろう。
苦痛と怨嗟が溢れる断末魔の叫びが、大気に満ちる。傷つき不自然に折れた両翼が、力無く最後の羽ばたきをして、動きを止める。
「愚かな・・・。我は調停者。この世の調和を守る、うつつみの最後の神・・・我を倒し、その男に世界を委ねる・・・。その先に待つ破滅が見えぬとは。」
「老いさらばえたトカゲの王よ。消滅するがよい。余と、我が愛しきバロア。この者が世界を革新へと導こうぞ。」
シャロームの手から放たれた漆黒の光弾が、竜王の心臓を貫く。
咆哮と眩い光を残して。
長きにわたり大陸に君臨した巨大な存在が、この世から消え去る。
二人の前に広がる、静寂に支配された空間。
それを破るように、シャロームが口を開いた。
「ついに、倒したというわけだ。これで余の望みを妨げる愚者はおらぬ。」
耳障りな笑い声に、バロアが目を瞑る。

「・・・いいえ、まだおりますわ。」
「何だと?」
「あなたの目の前に。」
封魔の槍を高く掲げ、シャロームの眼前に穂先を突きつける。形良く整った眉を小さく動かしたシャロームが、バロアを見返す。
「余に手をかければ、我が息子の肉体と精神をも滅ぼすことになる。」
「百も承知です。それでも・・・あの方は許して下さると思います。」
「汝はもう少し賢いと思っていたが。余と我が息子の願いは、変わらぬ。この世界の監視者を気取るトカゲの王を倒し、人類を革新へと導くことだ。」
「違います。あなたはベルゼーヴァ様とは全く違いますわ。あの方は、あなたのように弱者や自分に逆らう者を切り捨てようとしたことなどありません!あの方が望んだ人類の革新とは、あなたが求めている人類の革新とは全く違います!!あなたは、ただ自分が望む世界を、自分にとって都合のよい世界を作りたいだけ。あの方はきっと・・・私と同じことをしたはずです。」
「バロア・・・。」
名を呼ぶ声に、懐かしい気配を感じた気がした。
「ベルゼーヴァ様・・あぁっ!」
シャロームが、バロアの肩に手をかざす。その掌から放たれた黒い光に包まれて、全身に刺すような痛みが走る。思わず両膝を地面についたバロアを、シャロームが冷たく見下ろす。
「だから愚かだと言ったのだ。汝の裏切りに何も手を打たぬとでも思ったのか?フフ。裏切りは人の世の常、慣れている。」
「・・・っ。」
痛みと衝撃に荒い息をつくバロアに、シャロームが告げる。
「服従の魔法オベイデント。古代の禁呪だ。その魔法が有効である限り、汝は余を害することはできぬ。魔法であろうと、槍であろうとな。残念なことだ、汝を殺さねばならぬとは。」
バトルブレードの冷たい刃先が、バロアの首筋に押し付けられる。
「だが、このまま命を奪うというのもつまらぬ。戦ってみるか。汝はかなりの使い手なのだろう?もっとも余を傷付けることはできぬが。」
高笑いするシャロームを睨み返しながら、バロアが立ち上がる。震える両膝を支えるように、槍を握る手に力を込める。
シャロームが、冷たく目を細める。
「それでこそ、我が愛しき神への鉄槌・・・。だが、古き神々が滅びた今、汝という道具に利用価値はない。」
両手に握るバトルブレードが、薄暗い空気を鋭く抉る。一太刀目を交わし、二太刀目を槍で受ける。力を返すように突き出した槍は、だが狙ったはずの心臓を貫くことはなかった。踏み出そうとした瞬間に再び全身を走る痛みに、バロアが呻く。
「言ったはずだ、余を害することは出来ぬと。冗談だとでも思ったか?」
含み笑いをしながら目も留まらぬ速さで繰り出される全ての剣を、全て逃れることはできなかった。頬と腕に浅い傷を受けて、生暖かい血が肌を伝うのを感じる。
「全く、人類とは何と弱く脆い存在だ・・・。余に従えば不死の肉体を得ることもできたのだぞ。」
「あなたから何かを得ようとは思いません。何一つ!」
再び迫る刃を避けながら、バロアが叫ぶ。嬲られているのだろう、猫が捕らえた鼠を弄ぶように。顔、腕、足そして身体。致命傷ではない、浅い傷が数を増していく。動くたびに引き攣れるような痛みが走り、体から流れる血が動きを鈍くする。それでも、華麗な太刀捌きをかわしながら、必死に思考を巡らせる。剣でも魔法でも、彼を傷付けることはできない。シャロームを。
・・・ではシャロームでなければ?
「・・・ベルゼーヴァ様!」
「未練がましいことだ。我が息子の精神は・・・。」
「ベルゼーヴァ様!ベルゼーヴァ様!!お願いです、力を貸して下さい!・・・お願い・・・。」
初めて苛立ちの表情を浮かべたシャロームが、止めとばかりに剣を突き出す。心臓を避けられたのは紙一重の偶然に過ぎない。
「かはっ・・。」
それでも、呼吸が止まる。次いで、生きながら内臓を焼かれるような痛みが襲う。伊達に冒険を続けていたわけではない。この傷が、生命に関わる傷であることは疑う余地もなかった。
片膝をつくと、傷を手で押えて体を丸めて痛みに震わせる。傷口から勢いよく溢れる血液が、押えた手をあっという間に血で染め上げ、腕を流れ落ちる。急いで回復の呪文を唱えて、傷口を塞ぐ。
前方から近づく男の気配に。
死を覚悟して、身体を強張らせた。

「バロア・・・。君は・・・」
「・・・!ベル・・ゼーヴァ様・・・。」
顔を上げたバロアは、目前に紛れもない求め続けた人物を見出して声を失う。
よろよろと立ち上がり歩み寄ろうとしたバロアに、片手を上げて制する。
「・・・今しかないのだ。バロア・ミイス、シャロームを。」
残酷な言葉に、バロアが首を振る。
それしか方法がない。
それはわかっていた。
それでも。
ベルゼーヴァを目前にして、そんなことができるとは到底思えなかった。
「・・・ベルゼーヴァ様・・・私、私には。」
「他に選択肢はない。わかっているのだろう?・・・だから君は私を呼んだ。」
冷静な言葉に、バロアが首を振る。
「だけど。何か方法が・・・どうしたら・・・。」
「・・・時間がないのだ、バロア。私の精神がこの男の支配を・・・。」
ベルゼーヴァの顔が苦しげに歪む。形のよい額に、珠のような汗がいくつも浮かぶ。
「ベルゼーヴァ様・・・。」
「早く・・・。バロア!」
声に促されるように、封魔の槍を構えると心臓を狙う。黒衣に身を包んで立ち尽くす男の姿が、溢れそうになる涙で曇って歪む。
「バロア・・・君しかいないのだ。この世界を救えるのは。」
「いや・・・。」
何て、残酷な言葉だろう。溢れた涙が、暖かく頬を伝う。
世界を救いたいなどと、思ったことは一度もない。
救いたかったのは・・・。

「・・・私からの、最初で最後の願いだ。頼む。」
「いやぁぁぁぁ。」
長身の身体が槍先に飛び込んだのと、力を込めて槍を握り締めて踏み出したのと。
いずれが早かったのだろう。
「あ・・・あぁぁ・・・。」
震える指先に伝わる形容し難い感触。槍の先から流れた血が柄を伝い、地面を赤黒く染めてゆく。ゆっくりと槍を引き抜くと、ベルゼーヴァの身体がぐらりと揺れる。駆け寄ってその身体を支えると、そっと地面に横たえる。
「よくやった・・・。」
「私・・・私は。ごめんなさい。あなたを・・・救いたかったのに・・・。」
一体、どこで間違えてしまったのだろう。
助けたいと思った。常に自分を崩すこともなく冷静なこの男を。常に冷淡で強さを求めるその理由を知ってから。
いや、冷淡などではない。
彼は一度、自分を救ってくれたのだ。自らを犠牲にして。
そして今も。
それなのに。
「・・・ごめんなさい。私・・・。」
「不思議・・だな・・・。」
「・・・え?」
「君の声を聞くと・・何故か暖かい気持ちになった。守らなければならないと・・・こんな感情は初めてだった。」
ベルゼーヴァの指先が弱々しく伸ばされると、頬を流れるバロアの涙を拭う。力無く下ろされる手を両手で握り締める。
「ベルゼーヴァ様・・・。」
「ネメア様に抱く気持ちとも・・・違う。」
目を閉じようとするベルゼーヴァに、バロアが慌てて片手で腰に下げた袋を探る。生命のかけら。不思議な乳白色に輝くそれは、生命を癒す力が宿っている。小さく開けられたベルゼーヴァの口元に、生命のかけらをそっと含ませる。指先が、薄い唇に触れた。小さく喉を動かして咀嚼したベルゼーヴァが、再び目を開ける。
「・・・お願い、死なないで。」
血色を失っていく手を必死で撫でながら、バロアが呟く。
「君は、強くなった。・・・それでも私は、君を守りたいと・・思っていた。・・・あの男の・・・私のせいで辛い思いをさせて・・・すまない。」
言葉もなく、バロアが首を振る。
「・・・あなたは、何度も救ってくれたわ・・・私を。」
「こんな・・不思議な感情があの男の支配から・・・私を解き放ったのだとしたら・・・。これこそが人類の・・・革新の鍵なのかもしれない・・・。」
「えぇ・・・だから、貴方が生きて・・・。」
「・・・私には、見届けることはできそうもない・・・。だが君が・・・。」
「いや・・・。私、貴方を死なせたくないの!お願い!!」
両手でベルゼーヴァの手を握り締めたまま、バロアが叫ぶ。
ベルゼーヴァが、小さく微笑んだ。
「久しぶりだ、迷いのないその目の輝き・・・。初めて会った頃と同じ・・・。」
不意に。ベルゼーヴァが目を閉じる。握りしめた手の重みが増す。
魂が肉体を離れる。
それを、何故か感じることができた。
後に残された美しい亡骸に取りすがって、バロアはただ涙を零す。
最も憎んだ男の魂を。
そして、最も愛した男の魂を宿した、その美しい身体。
目を閉じた、整った容貌の輪郭をそっと指でなぞる。

バロアは顔の上にかがみこむと。
そっと最後の口付けを送った。


「ここにいたの。探したのよ。」
「・・・ザギヴ様。」
エンシャントの墓地を吹き抜ける風が、墓の上に茂る枝を揺らし、バロアの、そしてザギヴの髪を風の中になびかせる。
「今なら話してもらえるかしら。無理に、とは言わないわ。」
ひっそりと彼が眠る墓地に視線を戻すと、バロアはゆっくりと口を開いた。
ベルゼーヴァとの出会い。シャロームとの出会い。ユニオンスペルを得ようとマノンの腕輪を解放し、シャロームを知らずに解放したこと。肉体を譲り渡す代償に彼女を救うというシャロームとベルゼーヴァの契約。竜王の島での出来事。
「・・・そういう事だったの。」
「ごめんなさい。何もお話をしないで。」
「いいのよ。私のためだったのでしょう?」
「・・・ベルゼーヴァ様をお救いすることができなくて。」
「あなたにできなければ、誰にも出来ないことだわ。」
責めるわけでもない優しい言葉に、バロアが顔を上げる。ザギヴが人を許すことができるのは、きっと。誰よりも絶望を、この世にどうにもならない苦しみがあることを知っているからに違いない。
「ありがとうございます。」
「・・・これからどうするつもりなの?嫌でも耳に入ると思うからあらかじめ言っておくけれど、口さがない人々は色々と噂をしているわ。竜王を倒して、皇帝代理を倒して。自分が皇帝の座に就こうとしているのだと。あなたがそんな物を望んでいるわけではないことは、私はよくわかっているのだけれど。」
「ええ。」
「どうするの?」
「それは・・・ザギヴ様に皇帝の座に就いて頂けないかと考えているのです。」
ザギヴが無言でバロアを眺める。やがて、小さく笑いを漏らす。
「・・・ディンガル帝国皇帝の座。心に空洞を抱える女には、格好の棺桶ね・・・。」
「そういうことではありません。この大陸に本当の平和をもたらすのです。あの方の目指した真の人類の革新を求めるのです。もう、この世界に神はいません。私達が自分で歩くことしかできないのですから。」
「久しぶりね、あなたがそんな風に目を輝かせるのを見るのは。」
「・・・。」
「引き受けてもいいけど、条件があるわ。」
「条件、ですか?」
「あなたが、近衛将軍の地位に留まること。私だけにこんな重責を負わせるなんて許さないわよ。」
冗談めかした口調に、バロアが小さく微笑む。
「承知致しました。陛下のために忠義を尽くします。」
「二人でよい世界を作りましょう。あの方が求めた世界を。」
「ええ・・・。」
優しく柔らかな風が、二人の間を通りすぎる。
墓の上に影を落とす木々がその風に吹かれて。
密やかに語りかけるように、さらさらとかすかな音を立てていた。






| Novel Top |