神秘十字研究史について
神秘十字研究史(天池治彦代表)とは、キリスト教の歴史や過去の産業別に関わらず、歴史について学ぶ事も行う。
無教会として自然崇拝の基、歴史跡地を祈り、調査研究する者である。
歴史は過去だけでなく、現在の今も歴史の一つである。
(今後、少しづつではあるが記載をしていきたいと思う。又、書籍を出版したいと考えている)。
神秘十字研究史伝道者(郷土歴史家) 天池治彦
郷土の歴史
開拓伝道地域
私が誕生し、神秘十字教会が神様より与えられたこの郷土の歴史についても開拓伝道と共に載せていきたいと考えている。
この歴史ある地域に私を導き、神様より使命を与えられたことに感謝したい。
加治田の由来
加治田は勝田と言われていた。現在の加治田は勝田の言葉が変化したかもしくは、鍛冶屋(刀剣類)があったこともあり、言葉が変化したものと思われる(鍛冶屋・刀剣は現在でも加治田にある)。又、加治田の地名を苗字とした、加治田直繁がいるし、その息子の加治田繁政は後に加治田を改め梶田とし、梶田繁政と苗字を変更している。
古代からの交通
加治田は古代より重要な要衝で人が集まり、町を形成し、特に飛騨路としての要地であった。美濃国中濃にあり、地図を見ても真中に位置している。交通としては、西は京都から岐阜・関を通り、加治田へ入る。南は、勝山にあった猿啄城を通り、犬山から船で木曽川を下り桑名に出て海路か伊勢参宮の順路となる。北は、加治田を通り、武儀・金山・下呂・高山の国府を通り、越中へ出る飛騨路。又は武儀から郡上八幡を通り、敦賀への順路。東は東山道、中山道を行き来できる。町場や駅家郷として重要な位置であったと思われる。また、濃尾平野の最北端として最後の開けた地形と加治田山(梨割山)にある加治田城から北は平地はなく、山間と盆地の地域となり、位置や場所的にも重要であると考えられる。飛騨路街道から金山より交差し、中山道・郡上の街道も行き来する事が可能である。飛騨国は戦国時代、姉小路氏が大名であり、美濃斎藤家と深い繋がりもある。姉小路頼綱の正室は斎藤道三の娘であり、濃姫(帰蝶)の姉に当たり、名は他の書籍で調べれば正式ではないのだが胡蝶とも言う。飛騨国と美濃国を繋げ、同じ血筋の親族である美濃斎藤家と姉小路家を結びつける重要な要所が加治田城(却敵城)である。その結びつきは、織田信長と正室の濃姫も結びつけ、織田家・美濃斎藤家・姉小路家へ繋がるのである。
長良川支流の一級河川である津保川・川浦川
加治田城は天然の掘に山全体が囲まれている。南と東は川浦川。西と北は津保川であり、この先は長良川に合流する。この川は特に大雨が降ると濁流と急流の流れが速くなり、正に川を渡るのは至難の業となる天然の掘。津保川は川の流れが一定であり、溝と掘が深く、船で上流から長良川に合流し、岐阜城城下町から、伊勢神宮方面の交通の海運が可能である。川浦川も掘が深く、大雨になれば荷舟による運送も可能であり、加治田城城域である津保川と川浦川の合流地点からは、水量が増え、そこから川舟が十分可能であり、戦国時代やそれよりも先の時代に至って川舟駅もあったであろう。
歴史的に見れば、富加町の梨割山の北に当たる津保川には、水力発電所があり、大正八年には、発電所として村の全ての電力をまかなっている。川浦川にも大洞川と共に発電所が有った位である。その水量からして、舟による水運業や海運までの産業があった事が言えるであろう。漁業もその一つであり、鮎による産業も歴史的に長い。
加治田城の城下町は駅馬郷から水運業、宿場町として大いに栄え、それに霊地での参拝も含め、天然の掘を有した加治田城の却敵城の名を云われる由縁の一つなのである。
加治田城(却敵城)
教会がある場所は「加治田」の「絹丸」である。ここは戦国時代に主な戦が行われた地域であり、中濃の要所として重要な場所であった。戦国時代でかの有名な「織田信長」とも関わりが深い場所である。現在、梨割山と呼ばれている標高270mの頂上から麓までの場所に城があった。その城域は津保川から川浦川まであり、川に囲まれた急な山である。この城には美濃有力国人衆「佐藤忠能・忠康」父子が城を築き、その後、斎藤道三の末子「斎藤利治」が城主となっていた。この利治は長龍や新五とも呼ばれていた。
その城はすべての攻城戦において落城は一度もなく、敵をよせつけなかった。その名の通り城名が一名「却敵城」と戦国時代で言われていたほどである。現在は「加治田城」と言われている。
城域は北は津保川、南は川浦川で奥は大洞川が流れている。川に囲まれた加治田山(梨割山)の山頂に城があり、麓には城下町と御殿屋敷・武家屋敷があった。交通の要衝で城下町・曲輪がある城域を必ず通らなくてはいけない重要な要地でもある。このような場所に城を築城した佐藤忠能と忠康や一族は思慮が深いと思う。また、織田信長も忠能の養子として斎藤道三の末子であり美濃斎藤家跡取りの斎藤利治を加治田城主としたことと、利治も兄の斎藤利堯を留守居にするなどこの地や城の重要性がよく分かる。
加治田城は上記でも述べたとおり、戦国時代には却敵城と言われており、その他に加治田山城、古城山とも言われている。梨割山全体に城への道が繋がっており、砦や曲輪、米置場や狼煙台、旗立岩(三徳岩)があった。山全体が城でもある。城の中心には、曲輪が一~四まであり、土塁、重要な場所には虎口がある。本丸には石積の石が残っており、石垣があったことが分かる。岩場もあり、そこが米置場や砦としても使われたのであろう。戦国時代は、今で言う加治田城ではなく、却敵城が正式名であった。又、白華山清水寺の山号があるように、加治田城築城以前からは山全体が白華山と言われており、現在の岐阜城が金華山と言われているように白華山と呼ばれていたのであろう。この金華山と白華山との名の繋がりも織田家と美濃斎藤家の繋がりの証ではないのだろうか。現在は、梨割山、加治田山、古城山と言われているが、別名・白華山と言っても差し支えなく、そちらの方が歴史の名として正しいと考えられる。
加治田城の築城以前より加治田山麓奥には白華山として霊山があった。そこには清水寺があり、歴史がとても古い。京都にある音羽山清水寺と同じ草創でもある。この白華山清水寺は加治田城の一角にあり、登山道も続いている。この清水寺の頂上には立派な岩と石垣があり、この石垣も加治田城の砦の一部として使われていたのであろう。この石垣を見れば昔の加治田城の姿が想像できる。
城主の御殿屋敷城は現在の東公民館辺りで伝承地がある。東公民館の前は加治田小学校や役場があった。山の麓でひらけており、加治田城時代の石垣が今でも残っていると云う。御殿屋敷なので佐藤忠能、忠康一族や斎藤利治、斎藤利堯の一族が常時暮らしていた。御殿屋敷は立派な建造物だったに違いない。合戦後に織田信長も一泊した御殿屋敷城でもある。
頂上の城は合戦や非常時に使用された。頂上には櫓があり、本丸には住居するための二重櫓もあった。二重櫓は加治田城の天守とも言えるだろう。この天守からの眺めは見晴らしがよかったに違いない。今でも頂上からは遠くは伊勢湾、名古屋駅ビルが見え、岐阜城、中濃全域、東濃は恵那山、滋賀県の伊吹山、長野県の県境で御嶽山東濃、更に木曽方面の中央アルプス山脈や南アルプス山脈の一部まで見渡せるほどである。他にも本丸には櫓があった(物見櫓、見張櫓、隅櫓)。
本丸以外でも御殿屋敷城を囲み、本丸(本城)までの道を挟んでいた東の小山(現、天神山)に東櫓と西の小山(現、東公民館裏山頂上)には西櫓があった。東櫓には家老の長沼三徳、西櫓には家臣の西村治郎兵衛が守備している。両方とも堅固な櫓であり、東櫓は別名三徳櫓と云われていたほどである。西櫓は砦もあり、小規模な城や出城である。
加治田城の本城以外に衣丸という出城があった。ここは現在絹丸と言われている場所である。衣丸は、現在の絹丸神社より南で絹丸橋より北にあった。今は、住宅地となっており、家が集まっている場所であり、今でも上屋敷、下屋敷と地名がついている。この衣丸は加治田城や城下町、街道において重要な場所に位置する。加治田城本城と城下町に向かうためには、この山に挟まれた衣丸を通らなくてはならず、街道も衣丸を中心に東西南北に分かれている。
衣丸は捨堀に囲まれており、二重三重と柵や堀でおおわれていた。今でも捨堀跡でもあるU字溝が山から加治田城下町から川浦川へ流れる。また、家臣の屋敷や中心は石垣でかためられており、櫓もあった。この衣丸は戦でも一度も落城しておらず、関・加治田合戦に於いても衣丸で防ぎきった出城でもある。
加治田城には本城以外に大きな支城がある。毛利山城(牛ヶ鼻砦)と一柳城(大洞城)である。
加治田城は櫓や砦、曲輪が山全体を覆っているようで、正に却敵城の名であり、敵を全て退け、各合戦の攻城戦でも勝利し一度も落城がない難攻不落の城である。
加治田城絵図
南側に城下町が栄え、加治田山頂上には櫓がある。絵図から衣丸と駅家郷が描かれており、御殿屋敷と白華山清水寺もある。北は梨割山山頂で狼煙台や砦もあった。城下町の南には川浦川が流れているのが見える。衣丸より西に行けば津保川があり、北の山から流れており、川に挟まれた城域であることが分かる。
本城の曲輪(本丸)には建物が見える。それは櫓であり、天守と言える二重櫓もこの絵から分かるだろう。
香川元太郎氏の(1565年時代)加治田城イラスト一 (全体図)
現在、富加町郷土資料館や、みのかも文化の森にて展示中である。
富加町郷土資料館へ伺った時、富加町教育委員会島田崇正氏が対応下さり、そこで郷土歴史の歴史話もした。
香川元太郎氏は、お城の歴史考証イラスト作家として著名な人物である。
この城風景は、1565年であり、織田信長が中濃攻略戦を行う直前の風景である。
まだ、加治田城の改築は最初の方であり、加治田城一代目城主佐藤忠能と息子の佐藤忠康が築いた最初の城の形である。
まだ、この絵図では龍福寺はないし、衣丸方面の米取場方面の砦もない。東櫓(三徳櫓)と西櫓も建築・改築されていないのが分かる。
この時代ですでに駅馬や加治田城下町が発展しているのが分かる。
もう少し右の街道に行けば、白華山清水寺がある。
香川元太郎氏の(1565年時代)加治田城イラスト二 (加治田城城郭)
加治田城登山道の途中はジグザグの道になっており、敵の侵入が難攻となっている。
中腹辺りに砦があり、1565年で最初の初期である入口砦となっている(後年、東櫓と西櫓は堅固な櫓に改築)。
本丸には一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪まであり、右の離れている曲輪が四の曲輪。
正式登城道は、急な上り坂となっており現在でも整備されているが、急なところにはロープで手綱して登らなければいけない場所がある。
梨割山頂上前の加治田山に加治田城本丸がある
香川元太郎氏の(1565年時代)加治田城イラスト三 (加治田城本城・本丸)
加治田城本城イラスト。
虎口があり、三の曲輪まで急な斜面に建築されている。
本丸一の曲輪に1565年当時の二重櫓の天守が描かれている。一の曲輪の中央には本城本丸御殿。
一の曲輪は総石垣で築かれている。
腰曲輪、帯曲輪、四本の竪堀、正面大手道には帯状曲輪がある。
ここからさらなる改修・改築(加治田・兼山合戦時が加治田城最大規模改築となる)がなされた時、却敵城の名と、すべての敵を退けた由縁があるのである。
香川元太郎氏の(1565年時代)加治田城イラスト四 加治田城中腹屋敷城
1565年の加治田城の絵図であるが、初期の西櫓と東櫓が建設・設置されている。
加治田城本丸・本城の中間に位置する中腹に備わる屋敷城。
今で言えば、加治田郵便局の北側の丘である。
堂洞城合戦後、織田信長は加治田城に一泊。その時に好奇心旺盛の行動力ある信長は加治田城本城に登城したに違いないと思う。そして本丸より美濃国銭期の景観を見て「天下布武」
構想と、それまで父・織田信秀の花押しであったが加治城一泊の後、信長自らの花押しが行われている。
私が考えるに、岐阜県の新たな発見である岐阜城中腹屋敷。
2018年5月9日午後、岐阜城金華山にて中腹の屋敷が発見された。山全体が城であると、行き来出来る事。
それは、この加治田城に信長が一泊し、城下町から加治田城を登城し、加治田城の中腹屋敷を自ら見て、参考や山城を活かす為、加治田城の城構造を基に岐阜城を改築したのではないだろうかと考える。どうしてかと言えば、信長は平山城の小牧山城までは築いていたが、山城の岐阜城までは中腹屋敷城の改築城の考えはなかったことと、加治田城一泊により天下布武の構想と、花押しがかわり、これ以降、岐阜城・安土城と繋がったのであると考えるのである(岐阜城金華山も後で名付けたものであるし、加治田城は白華山の霊地であり、信長が近き名を名付けた事も考えられるし、斎藤道三の末子である斎藤利治を美濃国要所・要地で、難攻不落の加治田城城主に任命し、義弟に絶大な信用をよしている事もあろう)。
香川元太郎氏の(1565年時代)加治田城イラスト五 加治田城城下町(御殿屋敷・武家屋敷・城下町・龍福庵)
加治田城城下町。山の麓が城主屋敷であり、佐藤忠能・佐藤忠康親子と佐藤昌康の屋敷城である。今で言えば、東公民館から龍福寺寺までの山麓一帯。梅村良沢の住居も麓に有るが、まだ龍福寺ではなく、佐藤忠能の母が住んでいる龍福庵が左上に存在している。
城下町も発展途上であり、城主屋敷前に家臣団屋敷が建てられ、整えられている。
その南にあるのが城下町の商人から町民、工民等の家がずらりと並んでいる。
まだ発展段階であるが、飛騨街道出入口で賑わいがある城下町となっている。
一番の下が川浦川であり、加治田城の天然の掘となっている。又、現在も一級河川であり、川魚も捕れた事であろう。
季節により、蛍もとび、城下町がとても幻想的となり、夜に至っても旅人が多く泊まった宿もあった事であろうと推測も十分できる。
賑わいが絶えない城下町であった。
※中央上の屋敷は、弓等の訓練場でもある。
香川元太郎氏の(1565年時代)加治田城イラスト六 (加治田城城下町北側農家・馬場(馬駅)・小屋洞・田洞・石拾い)
加治田城城下町は飛騨国街道出入口であり、城下町は大いに栄えたわけであるが、その一つとして馬場の馬駅があった。ここでは馬が育てられ、飼育・管理・育成されていた。今で言う運送会社が馬駅である。川浦川の北側が馬場で広い。馬の教育から街道の運送や人を運搬するにあたり、馬の持久力(体力)を養う場所でもある。
馬場の北にある住居は馬場主関係住居と共に農家の家である。農家は川浦川の南側が田畑となっていた。
そして広大な土地である馬場がイザ戦となった時、川浦川北側に小屋洞・田洞・石拾いの名がつく通り、加治田衆(領民)が集まる砦ともなる。
川浦川は、加治田城城域である南側の天然掘である。
香川元太郎氏の(1565年時代)加治田城イラスト七 (加治田城本丸より北側・梨割山山頂・北の難所・加治田小牧方面)
加治田城本丸山頂より北側頂上が梨割山の山頂。その北側が北の難所と呼ばれている。
梨割山山頂より北側の麓には津保川が流れており、天然の掘となっている。
津保川からさらに北は少し開けており、加治田小牧と言われており、その場所にも民家や農家から佐藤一族住居も川沿いにあった。
1565年時にはまだ、山頂砦や狼煙台・見張り台は改築されていない。
加治田・兼山合戦の年代においては、加治田山から梨割山全域に城道が繋がっており、全山を持って却敵城(白華山)と云われていた。
加治田城縄張り図(一)
加治田城の本城の曲輪(丸)は、一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪、四の曲輪、大手曲輪、西曲輪と多くある。更に堀が無数にあり、堅堀、土塁、堀切とあり、他にも見張り台や大手道の道が城下町から御殿屋敷、梨割山山頂へ続いており、途中に加治田城本城への道もある。
大手道にはこの図に書かれていないが、御殿屋敷を取り囲む東櫓・西櫓がある。東櫓は、家老長沼三徳が守備する堅固な三徳櫓がある。西は西村治郎兵衛が守備し、櫓が砦でであり、現在の東公民館の裏山の山頂にあった。
この縄張り図から見るには、曲輪が密集しており、堅個であることが分かる。虎口もあることが分かっている。
加治田城は位置的に重要な場所であり、美濃国の要地・要所であり、要害城としての抑えも必要であったのだろう。また、美濃国人衆佐藤氏、美濃斎藤氏の居城としても重要であり、防御施設としても改築が行われたのであろうか。
安土城や岐阜城とは違い、見せるだけの城としての機能を重視せず、歴史的霊山(白華山清水寺)としての場所と、堅城としての機能を重要視した城であったと推測するが、宿場町として大いに栄えた城下町でもあるので、民衆にもアピールする城でもあったのではないのだろうか。
現実に、この加治田城は名に残す合戦が多くあったのだが、いずれも落城はなく、難攻不落である。名も別名で却敵城と言われており、恐れられていた城でもある。全ての敵を退けている山城であり、織田信長が堂洞合戦後、加治田城御殿屋敷城に一泊している唯一の城でもある。
却敵城と名付けられ、現在まで言われているのは日本、世界でもこの城だけである。
本丸の表示
現在、加治田城の本丸(一の曲輪)には、表示が設置されており、加治田城とその歴史の記述と絵図が記されている。
本丸(曲輪)の石垣(石積み)
本丸(二の曲輪)の石垣(石積み)
本丸(東曲輪側)の石垣(石積み)
本丸(曲輪)の完全なる石垣の一部。
本丸石垣跡と石積みの一部。
西大手道の東、西曲輪入口の大岩
加治田城本丸曲輪に残っている石積み。他にも石積みと岩跡があっちこっちに存在している。
大岩から前は、弾丸絶壁である。大岩の上に上ると、遠くまで中濃全域が展望できる。この大岩は狼煙台か見張り台でも十分活用がされていた事が考えられる。(自然の形とも言えず、人工的に加工された大岩のようでもある。)この大岩が目印で、東に加治田城本丸への道、西は、城下町御殿屋敷城の大手道が繋がっている。又、北の道である梨割山に繋がり、絹丸神社方面の道と別れている。
加治田城御殿屋敷後にも昔の石垣が残っている。加治田・兼山合戦後、森長可が廃城にし、山頂の建築物から石垣までは全て破却し、城下町に使用された。城下町にある石垣等は、加治田城の石垣等が使われている。そのおかげで、宿場町として昭和初期まで栄えており、今も城下町として存在している。
加治田城本城入口(虎口)
手前の盛土は人工的に造られている事がわかる。直接入口に入れないようにその盛土を迂回さえ、曲がって進まないといけない。それが虎口の一つ。
盛土とは、土塁・土台であり、加治田城の防御曲輪の一つである。
又は、その上に櫓があり、見渡せる施設があったのだろう。
途中の案内看板
登山道で、旧登山道側からではなく、白華山清水寺入口方面からの登山道にこの看板である「梨割山遊歩道」の案内板がある。場所は、丁度梨割山登山方面・加治田城登山方面、清水寺下山道の分かれ道にある。登山者にとってとても分かりやすい看板である。地図からして、絹丸神社方面の登山も載っており、そちらは米取場の大岩の場所を通り、梨割山山頂を通るルートである。絹丸神社とは、加治田城衣丸の出丸方面である。後、案内板には載っていないが、加治田城の反対側である北の難所方面の川小牧からの登山ルートも梨割山山頂からある。
加治田城の真下の高速道路が東海環状自動車道である。高速を走ると真上に加治田城があり、その威圧感と存在感は車からでもよく分かる。加治田城へ行く近場のインターは、関・富加インターもしくは、美濃加茂インターである。この高速で繋がっている高速道路を通るトンネルに、久々利城、金山城、鉈尾山城、岐阜城等、多くの城の真下か近場のトンネルが多い。これも何かの縁であろうか。それとも、重要な場所に城があると言う証拠であり、環状自動車道が通る道に城がある事がその一つと言える。
旧登山道も案内板には載っていない。旧登山道が加治田城の正式な登城ルートである。場所は、東公民館の御殿屋敷城跡地より東の公園より東側。案内の看板もある。そこから登山すると途中で、急斜面とはいつくばって登山する場所が多くあり、ジグザグの登山道となる。ジグザグの登城は、敵の侵入を難しくする事である。その場所には現在、ロープが敷かれており、ロープに手をかけて登山しないといけない。子の旧登城も加治田城を難攻不落の城とし、却敵城の名の一つの由縁であろう。
加治田城御殿屋敷城跡地
現在は、東公民館となってっており、加治田消防団駐屯地・公園がある。過去には、加治田小学校跡、加治田村役場があった地である。
戦国時代では佐藤紀伊守御殿屋敷城跡地であり、伝承地。
この御殿城屋敷跡には、織田信長も堂洞合戦後、訪れたであろうし、本城登山道もこの御殿屋敷城より東にある。加治田・兼山合戦では、斎藤利堯の本御殿屋敷城・本陣の地でもある。
この背後の山が西櫓砦であり、西村治郎兵衛が城代であり、ここより東の小山に東櫓の三徳櫓があり、家老長沼三徳が守備し、この本陣を囲み、山頂の本城を守る陣形であった。
つまり、白華山清水寺にある持国天・増長天が護る二天門が西櫓西村治郎兵衛であり、東櫓が長沼三徳と言えるのである。
この地は、現在でも選挙投票所であるし、地域の子供会キャンプ場やイベントでも使われている。この現在加治田小学校跡の南の階段を下りた東側の建物が加治田塾があった。我が小学校から中学生で、受験まで学んだ塾である。先生は京都大学卒業の先生(八百津出身)であると覚えており、夕方から深夜まで受験勉強を教えてくれた塾の記憶がある。その先生も「この地にはお城があった。」と教てて頂いた記憶が残っており、それにより歴史に興味を持ち、学ぶ楽しさを教えていただいた霊地の一つである。
天守の二重櫓
加治田城の本丸は、一の曲輪・二の曲輪・三の曲輪・四の曲輪があり、それぞれに櫓があった。その櫓の中に、加治田城天守とも言える櫓が二重櫓である。
二重櫓は、本丸の一の曲輪にあったと考えれる。他の曲輪には、物見櫓、見張櫓、隅櫓があった。
入口には虎口と主要な場所には石積み(石垣)や岩跡今でも残っている。
※写真は、加治田城の天守である二重櫓ではなく、茨城県の逆井城である。だが、この逆井城の造りは、当時の加治田城本丸山頂の天守や城の造りと似ていると考える。
正し、城下の御澱屋敷城や城下町は、全く違うと言ってもいいだろう。
加治田城天守は二重櫓とされているが、加治田城は美濃国佐藤氏の有力国衆であり、斎藤道三の子である美濃斎藤氏の居城であり、重要な美濃国中心位置にある要所の城である。その城は、難攻不落と云われ、却敵城と名付けられ人々に伝わっているのであるが、加治田城の城下町は、その地域の中心を成していた。
つまり、防御も重視された城でもあり、安土城のように民から支持され、見栄えを兼ねた見せる城でもあると考えられる。その為、天守は城下町からと、中濃より見える加治田山の頂上にあった。二重櫓は、御澱屋敷城や、古参の西村治郎兵衛が守備する西櫓(砦)と家老長沼三徳が築き守備した東櫓(三徳櫓)だった可能性が高い。更に言えば、城主・国衆である佐藤忠能や斎藤利治、斎藤利堯と加治田衆は、岐阜城や安土城、京都や各合戦に於いて、他の城を数多く見て体験しているし、織田家では、織田信長の家老であり、濃姫の弟と二代目織田信忠の側近(重臣)の立場である。それに飛騨国姉小路氏(姉小路頼綱の妻は、斎藤道三の娘であり親族)の客を招く為の桜洞城や、この国で一番標高が高く、石垣で造られた飛騨松倉城をも見ているはずである。
そう試案と考え、文献を調査すれば、加治田城天守も三重櫓以上で、見た目を重視した事が考えられる。現在、城絵図が残っていないのは、森長可が加治田城を徹底的に破壊・破却し、廃城にし記録を残さなかった理由もある。(だが、どこかに城絵図が保管されあるのかもしれないので否定は出来ない。)後、織田信長は、派手を愛し、天下人を人々に見せる為、家臣にも立派な城の建築を許し、造らせている。織田家一門衆に近い義弟斎藤利治に造らせ、命じている可能性もあるし、他の家臣団と同様に天守を派手し、豪華絢爛で力の鼓舞と民衆の支持を得て、濃姫の唯一の血筋である弟としての象徴を表わす城として天守を基本に城全体を築城・改修したと考えるのが普通であると思われる。
加治田城曲輪から天守が梨割山頂上ではなく、加治田山に築いたことは、城下町から天守と威光が見れる十分な場所にある事もある。それは、難攻不落と言われ、日本で唯一却敵城と云われた由縁でもあり、地形と歴史がものがっている。
二代目城主斎藤利治は、織田信長の居城である清州城・小牧山城・岐阜城・安土城を見、各合戦で各城と城域、町並みや民衆と農民と町文化を戦いながら見て学び、それに京都より宮内卿である平井信正氏を加治田白華山清水寺に賓客として招いた事もある。
白華山清水寺は、京都の音羽山清水寺の兄弟姉妹の清水寺であり、その積み重ねにより、加治田城下町は、賑わい経済的にも理知的にも重要な文化圏の要所となったのである。
梨割山山頂に本丸を築くのではなく、手前の加治田山に加治田城本曲輪を築いた理由には、城下町の展望が良いのと、城下町からの天守の展望も良い事、梨割山山頂からでは城下町が見えない事、梨割山山頂は、砦や狼煙台として活用したほうが役に立つ事、加治田山と梨割山の山頂どうしにより、曲輪と掘、土塁により、城がより強固の守りとなり、天然と人工の虎口になる難攻不落の名に繋がる事等、数多くの理由があるのだが、やはり一番は、城下町が加治田城本丸天守より見渡せ、逆に城下町からも加治田城の天守を下から望める事による威厳を考えた地形により築城したことを一番だと考える。
加治田城縄張り図(二)
加治田城本丸本城の絵図。曲輪から、堀切、虎口、虎口の絵図が描かれている。
加治田山の頂上に本丸があり、梨割山全体に砦や防御施設・米置場等があった。即ち、山全体が加治田城の却敵城と云われた由縁であったのだろう。多くの合戦で落城が無く、地形的にも重要な場所で、西は岐阜城金華山が見え、遠くに伊吹山も見える。北は御嶽山をはっきり把握できるし、支城の一柳城まで可能。東は恵那山もはっきりみえ、南は名古屋城(現在で言うと、JRセントラルタワーズまで見える)まで把握できる。それが難攻不落と云われ、却敵城と戦国時代に云われた由縁なのだろう。
加治田城縄張り図(三)
加治田城城山本城と城下町までの絵図。本丸頂上より南には、本城旧登山道であり、中腹屋敷の絵図も見える。
城下町より、加治田城天守は大いによりよく見えたであろう。威厳・威光もある城と見せる為の城であったことは間違いない。
急な斜面も守りやすく攻めにくい場所に築城した。(却敵城の由縁の一つ))
加治田城縄張り図(四)
加治田城本城より西側。龍福寺があり、上之屋敷、馬場、木戸外の地名が遺っている。
更に西へ行けば、加治田城衣丸があった捨堀や掘畑の地名がある。そこが関・加治田合戦で西側の激戦地があった出丸(加治田城衣丸)の場所である。
郷ヶ洞は絹丸神社があり、そこから今では加治田城や梨割山の散歩コースの出口となっている。登れば米置場へ続いている。鳥帽子岩もあり、加治田の歴史の中で俳句や公家等が加治田城下町で泊まった時の象徴である岩山。
加治田城下町(加治田町並み絵図)
この絵図は戦国時代ではなく、江戸時代の加治田町並絵図。加治田は飛騨国府街道入口で、東西南北の日本中心位置の街道でもあり、絵図からしても栄えていたことが分かる。商家からの宿場町、歴史ある霊地の白華山清水寺、佐藤氏所縁の龍福寺等が絵図に載っている。この江戸時代の栄え方の原点は、戦国時代の加治田城城下町から形成されている事にある。加治田城築城以前にも白華山清水寺がすでにあり、その時かそれ以前でも集落や町として栄えていたと考えられる。霊地として昔より認められた場所であり、縄文・弥生・古墳時代から加治田やその傍では、渡来人やその系統、日本人が住んでいたからである。
この絵図で残念なのは、白くはがれてしまった絵の部分がある事。その?がれてしまった場所が結構重要なポイントだと推測する。例えば、川浦川と大洞川が合流する場所と、宿場町の中心位置の街並み・街道がはがれてしまっている点である。
町の街道を絵図から見ると、食違・鍵の手・丁字路が見える。現在でも車で道路を走ったり、旧街道沿いや東公民館から町場を歩くと道がクランクしているのが分かる。これは、敵の侵入を防ぐ役割であり、大軍勢が通れず、迷う造りが加治田城下町にも垣間見える。それは、加治田・兼山合戦においても加治田城下町が主戦場となり、優勢だった森軍を複雑な道によるクランクの城下町内に於いて、森軍は混乱して斎藤軍(加治田軍)が天然の掘である川浦川向こうまで押し返した。三度の戦いの末、南北山城軍記の記述では、森軍は敗退し、加治田軍が勝利した事は複雑な道による結果をもたらしたことにあるだろう。
加治田城頂上(本丸・曲輪)から見た濃尾平野の南方(一)
遠くに名古屋駅ビル(JRセントラルタワーズ)が見える。手前の右山の頂上が 勝山城(猿啄城)であり、河尻秀隆が城主。中央の小高い山が美濃国加茂郡黒岩。そこは、仙石秀久が生まれた場所。左側の山は鳩吹山であり、その近くに土田城がある。そこは、織田信長の母(土田御前)の生誕地の城で、生駒氏(土田氏)の所縁の地である。加治田城の城下町までが濃尾平野であり、最北端の最後の平野の場所が海(伊勢湾)まで続いている。加治田城は中濃の中心地に位置し、東西南北に繋がる重要な場所に位置していたことが分かる。
加治田城頂上(本丸・曲輪)から見た濃尾平野の南方(二)
こちらの写真は更に濃尾平野の奥の方まで見えている。名古屋の駅ビルとセントラルタワーを中心に見える。もっといい天気であれば、名古屋城や清州城も見える範囲内にある。更に駅ビルが出来る前は伊勢湾までも視野で確認が出来たと言われている。現在でも駅ビルの右側の奥の方で、伊勢湾が見えると言われている。このような加治田に霊地に於いて城を築城した事は、佐藤父子がよく地形と地理を把握し、織田信長へ内心した理由とも言えるだろう。織田軍が常に加治田城天守から見えていたのだろう。そしてこの城が重要な位置に値し、美濃斎藤氏斎藤利治と斎藤利堯が領土を与えられた理由の一つである。
加治田城衣丸(絹丸)出丸
川浦川に架かっているのが絹丸橋。絹丸と言う地名は全国でもほぼない。この加治田地域のみの地名である。絹丸は旧絹丸村からの由縁であるし、加治田城衣丸から絹丸と呼ばれるようになったのが正式名である。
川浦川は、加治田城の南側天然の掘で掘が深く、雨天の時は激流の流れが起こる。正に加治田城城域南側の総構えである。
現在の絹丸橋を渡った北側に加治田城衣丸の出丸による曲輪が備わっていた。今では住宅が立ち並んでいる地域である。現在でも地名で上屋敷・下屋敷とも呼ばれている。
遠くに加治田山(現・梨割山)が濃尾平野最北端である山々が連なっている。
この加治田城衣丸が東西南北街道の重要な原点である曲輪でああった。
支城
毛利山城と一柳城は加治田城から南と北に位置している。
合戦
私が住んでいる地域は、戦国時代に大きな戦が三度も行われた。どの戦もその時代の重要な戦いである。その大きな戦は、加治田城を中心とした戦であるとも言える。
主な合戦は、加治田・堂洞合戦、関・加治田合戦、加治田・兼山合戦である。
加治田・堂洞合戦(堂洞合戦)
1565年9/22に中濃堂洞城で行われた攻城戦。同族の佐藤忠能と岸信周の戦いでもある。加治田衆と共に援軍の織田信長自ら率いて戦に参加した。
岸信周側は、関城城主で斎藤龍興家老である長井道利が岸氏側の援軍。後日、龍興が本陣率いてを岐阜城から駆けつける予定であった。
織田信長中濃攻略戦
図の富加町限定資料パンフレットにおいては、「織田信長の東美濃侵攻図」。
犬山城を攻略後、鵜沼城から勝山城そして堂洞城へ織田軍は休まずに次々と進軍する。その理由は、加治田城が織田軍に内心した事にある。加治田城は難攻不落で却敵城とも云われていた山城であり、中濃地域の中心をなしており、飛騨出入り口の重要な要所の城である。
加治田城が長井道利関軍と親族の堂洞岸軍、更に援軍の岐阜城から斎藤龍興本軍と共に米田城の肥田忠政軍が加治田城を東西南北囲み、攻め寄せる事もあった事から織田信長は自ら堂洞城攻略へとのり出した背景があろう。
地図から見れば、中濃地域は川が多く流れており、川沿いに城があることが分かる。
堂洞城は加治田城を見張る為の付城として平山城に築かれた。
加治田城は佐藤忠能・忠康親子と古参・西村治郎兵衛と家老・長沼三徳により、地形と中濃地域の要地を調べ、白華山清水寺がある霊地にこそ必要不可欠な城と認知しここに築城された訳でもある。一級河川の川浦川と津保川の天然の掘に囲まれた急な山と川を利用した平地に城下町と霊地の観光場所を駆使して築き上げた名の通りの却敵城となるのが地図からも垣間見える。
堂洞城�見取り図一
堂洞城は加治田城の目と鼻の先で、頂上本丸より全城域を見渡す事ができる
堂洞掻上城とも言う。つまり、土を掘り、堀を造った後に掘った土を土塁から城の壁として盛り上げる盛土。加治田城を監視する為に急遽築城された城。
一の曲輪・二の曲輪・三の曲輪があり、出丸曲輪・北の曲輪(長尾丸)が地図からしても築城されていた。
長尾丸は佐藤忠能の娘・八重緑が磔にされた場所。
堂洞城は平山城であり、丘陵に地形で、今でもこの堂洞山に入ると迷子になる位、方向感覚が判らなくなる城である。
堂洞城�見取図二
堂洞城城域は、富加町夕田・富加町羽生から美濃加茂市蜂屋、そして加治田絹丸までである。
堂洞城は平山城であり、城域内に池や湖が多くある。
現在でも入城すると、現在位置を確認できない程迷う平山地形である。
軍記物によると、天守構の建設物があり、天守が備えられた城(砦)である。
現在は本丸以外はゴルフ場にて城地形が壊されてしまっている。だが本丸はしっかりと史跡もあり、遺されている。
我が子供の頃、保育園の時に遠足で城跡に行った時、土を掘れば、焼き米が確実に見れ、手にする事が出来たし、曲輪の外はとても深い掘(土堀で囲まれていたし、堀の下まで行った事もある。
本丸跡より、歩く為の石段(石道)が下へ続いていたのも子供の頃確認した記憶も遺る。
堂洞城南側入口石碑
堂洞城南側からの入口で登山道。本丸まで車で行けるが途中の池から道が狭くなるので安全運転が必要である。
行けまでは二車線で桜並木道。
場所は美濃加茂市蜂屋の交差点。前平公園を通り越し、工業団地から北へ下りて行った最初の交差点が堂洞城入口。
堂洞城の南側がここまでの城域にあたる。
堂洞合戦日において毎年、この石碑にお花が飾られ、お供物がされている。
堂洞城にある八畳岩
この天然の大岩は堂洞城内にある。平らで丸みを帯びている岩。
この岩は八畳岩と云われており、岸信周やその家来・城兵ともどもがこの岩に座り、皆で月の宴を行った場所と云われている。
堂洞城本丸前にある大岩であり、米蔵(焼き米が出る場所)から近い場所にある。場所的にも酒宴が行われやすい場所であり、地形的にも夜空が全体的に見えた場所であろう。
関・加治田合戦
1565年8月から9月に加治田城攻城戦と関城攻城戦の合戦。佐藤忠能率いる加治田衆と織田軍援軍は斎藤利治。
対するは関城長井道利と斎藤龍興援軍。それに加え肥田忠政軍の攻城戦の戦いである。
主な主戦場は、西では加治田城出丸である衣丸であった。現在の加治田絹丸地区(旧絹丸村)である。この出丸の衣丸にて加治田軍と織田軍援軍に対し、関軍と斎藤軍援軍が激突し、激しい攻防戦が行われた。
同じく加治田城東側から米田城城主である肥田忠政が杉洞峠を超えて、関軍と同時に押し寄せて来た。東は佐藤忠能が加字治田城天然の掘である川浦川で守備しており、この川を挟んで迎え撃った。
東西で勝利した後、斎藤利治は、加治田城で人馬を休め、織田信長へ関城攻略を直ちに要請した。信長もその意見を直ちに受け入れ、急遽、援軍を派遣する。
9月に入ると、関城攻城戦が始まった。東からは斎藤利治と加治田軍、南と西より織田軍が関城に攻め込み、関城の周りに砦を長井道利は事前に築いており、砦に寄る攻防戦が先ず始まった。急いで改築したと思われる跡が残っている。
加治田・兼山合戦
1582年7月に行われた戦い。斎藤家と森家の戦いであり、清州会議後の織田家内での争い。織田信孝派(柴田勝家派)側と織田秀信(三法師)派(羽柴秀吉派)の対立でもある。
斎藤利堯が率いる加治田衆と森長可が率いる森軍との戦い。
前哨戦として毛利山城(牛ヶ鼻砦)があり、その後、加治田城攻城戦が行われた。前哨戦も二度激しい戦が行われたが、毛利山城は落城せず森軍は撤退した。本戦の攻城戦も三度あり、加治田城掘(天然の掘)である川浦川渡航戦、加治田城城下町・三徳櫓攻防戦、森軍本陣の戦い(旧堂洞城)である。
加治田・兼山合戦の前哨戦において、西村治郎兵衛を中心に、湯浅新六・佐藤堅忠・大島光政・井戸宇右衛門とともに五十余騎で、毛利山城(牛ヶ鼻砦)に伏兵を配備。森勢に挟撃し森勢は大混乱、死傷者続出し大敗。激戦地は三つ池付近で傷を負った武士らがにげまどい這いずりまわったので現在でも「這坂」の地名がついた。
その後も森勢は鬼兵庫の異名である各務元正が中心となり、二度も攻めたが、西村治郎兵衛が代表城代の加治田衆は、二度も撃退し、勝利する。
その前哨戦の結果、森長可は牛ヶ鼻砦の敗軍の思いと世間の評判、支城に有力武将が守備している事と兵数を考慮した結果、本城が手薄となっている加治田城の要地を直接攻城・占領して中濃地域まで支配する作戦へ出た。
そして、刺違えて加治田を攻め落とさんと馬串砦を出陣、牛ヶ鼻砦を通り越し、中濃攻略戦であった加治田城(却敵城)の付砦である堂洞城跡の本丸を本陣として使い、軍議を練る事となる。
牛ヶ鼻砦の加治田衆(城代、忍・西村治郎兵衛、槍術家・湯浅新六、美濃佐藤氏一族・佐藤堅忠、加治田大島氏・大島光政、名門井戸氏、家老・井戸宇右衛門等)は、森軍の動きと情報を察知し、密かに牛ヶ鼻砦を出立し、加治田城本城へ向かい合流し、相対する戦術・軍術による陣立てをする。
川浦川を挟み両陣営の攻城戦が始まった。
他の合戦でも加治田衆が関わっているのがある。例えば、月岡野の戦い、本能寺の変・・・等については、後々に記載していきたいと考える。
加治田衆
加治田の住居者や加治田城の武将や出身者は全て衆として、加治田衆と言われていた。この加治田衆は多くの歴史に関わり、伝承や大名、任官、文化、技術の発展にも関与している。現在でもその子孫や苗字、逸話や団体として存在しているほどだ。この衆は強者が、揃っており、バランスがよく、人材も豊富にあり、それぞれに名を遺している。
加治田衆は、加治田地域だけでなく、加治田城の城主(大名)の領土に入る人々をも言う。加治田城を中心とした領土は何十万石を治めた大名であり、それらの地域を加治田衆と言うのであろう。戦国時代では美濃国国人衆佐藤氏であり、斎藤道三の後継者である美濃斎藤家の領土である。織田家でも義家に当たり、濃姫の弟、又は兄が城主となった場所であり、親衛隊みたいに鍛えられた軍隊が加治田衆であったろうと推測する。
加治田城大名の領土
加治田城を中心とした大名の勢力・領土については、
「加治田は森武蔵守殿三人懸けの大名・人持にて候。」と森氏軍記に記入されており、森氏の三倍の勢力であったと云う。(岐阜県史)
初代、佐藤忠能から二代目斎藤利治、三代目斎藤利堯に至っては何十万石の大名となっていた。領土は中濃全域・飛騨国下呂方面と飛騨川沿い・美濃国以外の他国にたっしていた。
加治田衆の人物について
加治田に住む住居者、出身者、武将を含む人物であるが、加治田の城主に仕え、その領土地域まで仕えている人物までを記述する。戦国時代から江戸時代までを指す。
現代でもその氏族と子孫が同町に残っていたり、他の氏族の系統に関わっていたり、全国に広がっている。
人物(城主、武将、加治田住居者、主な氏族)
佐藤氏
佐藤忠能(初代加治田城城主)、佐藤忠康(父と同じく加治田城築城主二代目)、佐藤昌信、八重緑(中濃三城盟約により、岸信房の養女。加治田・堂洞合戦で串刺しの磔となる悲劇の姫。)、正室院(斎藤利治室)、佐藤継成室、佐藤清助室、佐藤能信、佐藤信則、佐藤堅忠、佐藤継成。
斎藤氏
斎藤利治(美濃斎藤家後継者として義兄織田信長の命により加治田城二代目城主。斎藤道三の末子)、斎藤利堯(加治田城三代目城主。稲葉一鉄の姉妹の甥)、斎藤義興(斎藤利治嫡男)、斎藤市郎左衛門(斎藤利治次男)、連与(速水氏)、斎藤元忠(加治田村代官)、斎藤徳元(二代目代官)、
大島氏
大島光義(加治田領を含む関藩初代)、大島光成(二代目大島家当主)、大島光政(加治田大島氏の祖・初代川辺大島氏)、大島光俊(初代迫間大島氏)、大島光朝(初代鳥取大島氏)、大島吉綱(大島流槍術開祖)、大島義保、大島義陳、大島義浮。
岸氏
岸信周(堂洞城城主)、岸信房(堂洞城城主二代目)、岸信貞、岸信清、栄。
平井氏
平井信正(御所に仕えていた宮内卿・高官。京都出身であり、軍術・和歌・連歌・蹴鞠の知識や文化・技術に長けていた。斎藤道三とは縁故の仲)、平井綱正、平井公寿、平井貞誠。
長沼氏
長沼三徳(加治田城城主の初代より代々家老職、加治田城御澱屋敷城東櫓の三徳櫓城代)、長沼藤治兵衛、長沼十平、長沼藤四郎。現在も旗をたてた岩が現存している。別名三徳岩。加治田・兼山合戦後に勝利した後、斎藤利堯が稲葉一鉄と共に行動。その後加治田は森長可の領地となり、加治田衆もそれぞれ別れたのであるが、代々家老の長沼三徳は、斎藤道三末子斎藤利治の嫡男と次男である斎藤義興と斎藤市郎左衛門を同じ古参である西の村である絹丸村名主の西村治郎兵衛と共に成人になるまで養育する。(斎藤利治の正室である佐藤忠能の娘である正室院も保護。)西村治郎兵衛は長沼三徳に後を託し、天命を全うする。その後三徳は、斎藤利治遺児を美濃大名となった織田信長の孫である織田信秀へ推薦し出仕させた。出仕させた後は、加治田村の村役や加治田衆代表領民となる。斎藤利治の正室も保護し、最後まで看取る。佐藤忠能の氏族や岸氏(佐藤氏)氏族についても保護・世話をする。1600年の関ヶ原の戦いで織田信秀よりまねきがあり、三徳は喜び、「死地を与えられたことは武人の本懐」と言い、経帷子、経頭巾、経羽織、猿の毛皮に覆輪をとり着、白葦毛の乗って岐阜城へ入城する。岐阜城の戦いで、斎藤利治の遺児である斎藤義興と斎藤市郎左衛門と共に80過ぎの年齢であったが岐阜城七曲で共に戦う。最後は、二人の盾となり戦死した。盟友西村治郎兵衛との約束通り、斎藤利治の遺児を最後まで守り、正室も看取どけ、加治田村も守った。三徳戦死の後、息子である彩雲が村役を務めることとなる。
西村氏(天池氏)
西村治郎兵衛(支城毛利山城(別名牛ヶ鼻砦)の加治田衆代表城代、加治田城御澱屋敷城西櫓(砦)城代。絹丸村(出丸である衣丸)の領主(分家は絹丸村名主)。軍記物では、堂洞軍記・永禄美濃軍記・南北山城軍記・新堂洞軍記に治郎の人物の記載がある。治郎は二郎と次郎の同じ人物であるが表記もある。長沼三徳とともに、古参の加治田衆武将であり、家老長沼三徳の盟友。各合戦中にも微服潜航での忍びや、伏兵での夜中の襲撃する活躍する姿の記載がのっており、加治田衆の忍びとも云えると考えられる。月岡野の戦いにおいても事前の情報により地形の複雑な月岡野で戦を仕掛ける戦術で大勝をもたらしたとも伝わる。斎藤利治は、自分の家臣と加治田衆に自分の字を与えている事から、西村治郎の次郎・二郎から治の字を与えている可能性も否定できず、推察される。三代目か治田城城主斎藤利堯の動向後、加治田衆はそれぞれに分かれたが、治郎は長沼三徳と共に斎藤利治の遺児である斎藤義興と斎藤市郎左衛門を加治田城衣丸である治郎の絹丸村にて養育し、斎藤利治正室である正室院も保護する。最後は、長沼三徳に後を託し、天寿を全うする。氏族の分家・一派で天池氏がある。
湯浅氏
湯浅新六(槍の名人であり、達人。槍を持つと向かう者無し(敵無し)と伝わる。加治田・堂洞合戦では、腹十文字切腹をした嫡男岸信房の首を討ち取り、関・加治田合戦においては、加治田・織田連合軍が関・斎藤援軍に追い込まれている時、一人一番に名乗り出て、槍を奮い、敵軍を突き崩し勝利へ導いた。その時、援軍の斎藤利治(新五)より一字を与えられ湯浅讃岐から湯浅新六と名乗ったとされる。加治田・兼山合戦においても、牛ケ鼻砦城代西村治郎兵衛と共に密かに伏兵を配備し、夜中に襲撃し森勢を撃退する。加治田城攻城戦では、森勢が旧堂洞城本陣に撤退し、兵を集めている時に三方の一勢として裏より攻め上がり、森軍より勝利をもたらした。
一字を与えた弟子である大島流槍術開祖大島吉綱の師匠。加治田城出丸である衣丸城代。
板津氏(白江氏)
白江権左衛門(一騎打ちの勝利者。白華山清水寺入口砦城代)。板津氏とは同族。堂洞合戦・関・加治田合戦・加治田・兼山合戦に参加する。
梅村氏
梅村良澤(隠士。加治田城城下町竜福寺門前前に屋敷を構えた。)、梅村左平治。
井戸氏
井戸宇右衛門(大和国井戸氏名家出身。斎藤利治が美濃斎藤家後継者として加治田城城主となった時に家老として仕えた。本能寺の変後は、三代目加治田城主斎藤利堯に仕える。斎藤利堯動向後、森長可に加治田衆の将達のまとめ役を与えられ、重きをなす)。
梶田氏(加治田氏)
梶田直繁(川並衆の一人であり、鉄砲頭、豊臣秀吉の旗本)、梶田繁政(豊臣秀吉の旗本。後に福島正則の家老となる)。梶田政村。
他(加治衆)
小森半平(屈強三十八騎の一人)、清水九郎兵衛(美濃斎藤氏の旗本)、吉田弥三(長沼三徳の友軍)、田中七郎右衛門(一軍の大将)等。
人物について
この加治田衆の人物の歴史を載せていきたいと思う。一人一人がどのように生きたのか。その生き様と信念、人間模様、歴歴史観が見えてくるように思う。今現在を生きている私たちの先祖にも関わるからである。加治田衆については、今までなかなか歴史人物や衆について語り、後世に伝えた書物や事柄が少ないように思う。歴史は大体、有名な人物や歴史に名を遺した人が光を当てられている。
だがそれは違うのである。我々が今生きているのは祖先おかげであり、その地方でも活躍し、日々をしっかり生き、伝統文化や氏族を遺して行った人々が本当は大切である。
加治田衆は名を遺す人ばかりであると思う。それは、文化、氏族、歴史、現代まで行かされており、流派や宗派にも関係しているのである。
これから少しづつ記載していきたいと考えている。
天池氏由来
現在、加茂郡地域には天池の苗字が多くあり、一族も多く住んでいる。他の地域や県外ではこの苗字は珍しい。私も全国各地に住んだり行ったりしたのだが、ほとんどいなかった。なぜこの地域に天池氏が多いのか。一族がこぞって移り住んだのであろうか。そこで私は一度調べてみたのである。調べた結果、この地域の風土や歴史、地名、口伝、由来から天池と結びついていることが分かったのである。それを記述する。
天池の池は地を表している(天地)。
尾張国中島郡天池村が起源でもある。
日本以外では朝鮮族の聖地として白頭山山頂カルデラ湖の天池がある。
海洋族の一族であり、古代海部の居所がルーツとなる。
現在、岐阜県加茂郡に氏族が集まっている。
天池氏族は海洋族の通り、渡来系の氏族である。加茂郡地域に多い場所は富加町の加治田絹丸地区。それは今私が住んでいる地域を指す。天池氏族は、歴史的に地名考にも深い結びつきがある。
古来からの聖地・霊地
天池(ティエンチ)と呼ばれるカルデラ湖も繋がっており、朝鮮族ネットでは現在、在日本中国朝鮮族交流団体である天池協会があり、天池青年会、天池教育基金、天池ネット、天池後援会などの組職がある。
天池は、水面高度 2,257mは、世界中の火山湖の中で最も高い海抜で、湖面の広さは9.82平方km、水深は373mで中国で一番深い湖。水面高度
2154mはカルデラ湖としては世界一を誇る。周囲には数多くの滝や温泉があり、動植物の種類も数も豊富であり、自然の宝庫。
この天池には、長白山天池には、怪獣が生息しているという。また、その怪獣は不明の生物で確認されており、未知の生物が生息している。
この天池も神秘の世界の一つである。
加茂郡加治田絹丸村の天池氏について
天池教一氏が作図した「絹丸部落地図」の地図には、天池一族が多く集まっていることが分かる。また、天池氏と同様に西村氏も昔から江戸時代・明治時代からの図にて含まれている。この天池については、地名・気候・天災・争いから苗字の由来が結びついている。また、渡来人としての天池もあるであろう。
この絹丸村は、戦国時代に於いて、加治田城の重要な曲輪の一つである出丸で衣丸であった。
この出丸は、東西南北の街道を繋ぐ。
東は、加治田城下町と本城への入り口であり下呂から国府、高山へ続く入口が衣丸。
北は、加治田城米置場の砦を通り、武儀郡、郡上、敦賀へと繋がる。
南は、衣丸より、南に街道が勝山城の木曽川に至り、木曽川を下り、犬山から伊勢神宮へ続く道と、尾張・三河方面への道になる。
西は、刃物で有名な関市から加治田城から見える岐阜市(岐阜城)へ街道があり、京都もすぐに行ける街道の繋がりもある。
この重要な場所に現在まで天池氏(西村氏)の氏族が地区(衆)として、現在まで伝統文化を守り伝えている。そこに歴史が深く関わっているのである。
加治田城(却敵城・加治田山城・古城山)の全山(現、梨割山)を遠望
羽生の天池農園(畑)より、梨割山全景を撮影。
全山の麓に白華山清水寺・龍福寺・城下町・各神社・寺社・旧街道がある(※神秘十字教会(事務所)は加治田城衣丸(出丸)関所街道沿い)。梨割山頂上が中央。左側の岩が露出して見える山が米取場の砦と旧街道。加治田城本丸山頂は、中央山頂から右側の尾根山頂の古城山。
この全山で城の道が繋がっており、山全体が城であった。この全山で大きな合戦が何度かあったのだが、全て敵を退けたことから、日本全国・世界でもなかなかない「却敵城」と戦国時代には名付けられ、難攻不落の城の一つである。
この全山の周りを天然の堀である川浦川と津保川が流れており、全山を囲んでいる。この川は、長良川へ合流する。場所は、美濃国中濃で地図から見ても日本国中央に位置している。
地形的に籠城するのに水不足もなく、東西南北情報が入り、景観も全てを見渡せ、天然の堀と地形的に霊地である事と、攻めるには巨大な山地が威圧し、難攻不落の城であり、現実に戦国時代の城の名は却敵城として世界的に見てもこの城にしか名はない。
富加町郷土資料館で頂ける資料・登山道・加治田城・堂洞城縄張り図
左が加治田城と堂洞城の縄張図。右が登山道の道と城の場所の位置。地図の全体図である。
富加町郷土資料館は、午前9:00から午後16:00までが開館時間である。
他に歴史資料や書籍・パンフレット・お土産も販売と配布されている。
街道地図
この地図に矢印で丸印付けてある場所は勝田。それは今で言う加治田の事を指している。
加治田は昔から旧飛騨街道の出入り口として大いに宿場町として栄えた場所である。
この勝田より東西南北の街道がめぐらされていたいた。つまり、どこにでも行ける日本国中心位置に存在し、重要な場所であった事を意味するし、歴史に遺っている。
現在でも東海環状自動車道の中に入り、交通・流通・モノの運搬に丁度良い場所であり、自信に対しても地盤が固いのが特徴。
東海環状自動車道は、丁度加治田城の真下をトンネルで通る。これも何かの縁なのかもしれないと考える。
加治田城跡(中心部)の立木伐採(2018年 4/27)
以前より中心部分が繁い茂り、城跡の移行や範囲が不明確であったのだが、富加町教育委員が地権者の了解のもと、環境整備をし、伐採作業を行った。それにより、加治田城の遺構(山頂部には曲輪・竪堀・虎口・石積)と、城からの風景・見渡しがよくなった。
石垣と曲輪跡の立木伐採(2018年 4/27)
右に石垣と左にも一部石垣が見える。ここも本城曲輪であり、一から四の曲輪(本丸から四の丸)に値する。この場所に櫓があり、天守も備わっていた。そこから見える景色は絶景であったであろう。中濃全域を360度見渡せるし、尾張から伊勢湾まで遠く見渡せたほどである。歴史的価値が高い遺構であると教育委員会も認め、伐採を行った程である。我が推測するに歴史的価値が高く、そのまま移行が残っている為、文化財に将来なる霊地の本城場所となるのではなかろうか。却敵城の名にふさわしい。
加治田城登山・郷土研究・現地調査実施(2020年 1/1)
令和二年に我が兄の長男と共に絹丸神社から加治田城麓御殿屋敷跡・清水寺・加治田城登山・本丸跡を年明けを拝むと共に最新のデジタル写真を自ら撮影し、加治田城の調・研究と登山も兼ねて行った。それにより加治田城本丸において伐採に寄る事も有難く、石垣と石積みが数多くあることが解った。更に本丸だけでも一の曲輪から4の曲輪まで高低差が多々あり、虎口も確認し、人工による盛土や掘も確認出来た。
加治田城本丸は石垣で覆いつくされていたことが解った。(少しづつUP。今回の登山で55回以上撮影したほどである。)
この場は加治田城麓にある御殿屋敷城跡地。現在は東公民館と公園となっている。
この地は佐藤忠能御殿屋敷伝承地であり、加治田小学校跡地である。
写真は御殿屋敷城伝承地と加治田小学校跡地の石碑の写真が証である。
古城洞水辺公園。この公園から旧登山道が水域と共に本丸へジグザグ登城となっていた。現在も旧登山道が修復・改善されており、登る事も可能である。ただし途中はロープを用いての登山tなっている。加治田城は水が湧き出る場所があちこちにあり、水不足に困らない難攻不落の一つの理由にある城である。
旧登山道もl今後調査する予定である。公園の南に駐車場も有。東公民館の東に上記の御殿屋敷跡・加治田小学校跡・古城洞水辺公園がある。
絹丸神社入口。入り口前には花壇もある。
絹丸神社から左側に登山口があり、米置場ルート。
絹丸神社内からも山道であるが山の神からの登山ルートもある。
入口右側には絹丸地区の西村宅が山の麓にある。この西村氏は西村治郎兵衛一族の子孫であるし、分家でもある天池氏が絹丸地区に日本全国内でもこの地に多く住んでいる一族。
絹丸神社入口には鳥居と石段。更に中に入ると、簡単な登山であろうか。
絹丸神社拝殿。ここで祭りが行われるし、大晦日では深夜の参拝の人々の為に、火が焚かれる。
子供の頃から本殿の周りで遊んでいた記憶有。もう40年以上の建築物である。
拝殿奥の本殿。拝殿から見上げた位置にての写真である。これも歴史が長く、100年以上は建っている建築物と本殿である。
更に奥は自然崇拝森林。
緑深き奥に本殿と神様は鎮座されている。
絹丸神社は加治田城衣丸の出丸北側に位置し、米取場入り口付近に位置する。
衣丸がのちに絹丸との漢字にかわったと考えている。
絹丸地区は旧絹丸村であり、西村氏と天池氏が現在でも多く一族と共に住んでいる。絹丸神社はその氏族の神様であり、主祭神は天照大御神である。
加治田城の麓には歴史ある霊地の一つ、白華山清水寺がある。
石垣も古く、加治田城の砦としても使用された。清水口は入口が狭く守りやすい砦であるし、清水滝口は天然の地形と堀が深く、天然の要塞の地形と飲み水が豊富にある砦としても使われた。
元旦初日と言う事で、人々が集まっていたし、焚火も行われていた。
加治田城登山・登城前に歴史ある白華山清水寺にも参拝。
奥に国宝が保存されている。
白華山の名と岐阜城の金華山の名も共通しており、織田信長が一泊し、この清水寺にも参拝した繋がる歴史もあろう。
清水寺の北側に位置する池。クロメダカが多く群れをなして泳いでいた。
ここは清水の滝が岩から流れる滝口の池である。
ここからの水が加治田城下町へ流れ、川浦川へ繋がり、津保川そして長良川へと繋がっている。
1200年の歴史がある白華山清水寺の兄弟姉妹寺が京都の音羽山清水寺でり、同じ縁起の歴史有り。
「白華山の滝」と「白華山の池」
「春は花 秋は月かげ 清水の いつも絶えせぬ 滝の白糸」の詠歌。
白華山清水寺参拝をし、木の橋を渡り、加治田城登山道へ。川の隣道を登っていく。
写真からコンクリート道路ではなく、山道へと続く。途中には表示板有り。
分岐点から道が分かれる場所にも表示板が有り、登山道も整備されており、迷う事はない。
途中の表示板には、梨割山遊歩道の絵図が描かれている。
絵図からすれば、東海北陸自動車道の真上が加治田城本丸跡。
東から白華山清水寺から登れる道、西は絹丸神社より米置場を登山道が絵図より分る。
表示板より南登山道を登る。林業の木が植えられているが、地形的から覆手道の梨割山道へ繋がる道であろう。
南登山道を登ると、大きな岩山や岩による断崖地形に出る。ここは加治田城西見張り台に位置する。
景観もよく、断崖は水平となっている。
天然の石垣であろう。
岩山より南西方角を見る。
堅掘をとおると、多数の石積みを見る事ができる。ここからが覆手曲輪跡。
石積みとチャート地層を見る事ができる。(ブラタモリのタモリ氏に見てもらった方が、山の地形と地層と城の意味の解説をなさるのではないでしょうか)
地層を活かした西曲輪。又、廃城となり解体された石垣も見受けられる。
地層と土塁も見受けられる。
堀切と堅掘の狭い登山道。
石積みの一つ。
本丸に近づくにつれ、地層と岩や石積みを見る事ができる。
西側の虎口にあたる。人が造った地形であろう。櫓もあったと思われる。
一の曲輪前の虎口。人が造った人工的な地形である。
西側より本丸へ。表示板はここにある。
本丸より、南側景色。
遠く、名古屋の駅ビルや坂祝の勝山城も見える。可児市の土田城も確認できる。
戦国時代では駅ビル辺りは海であり、遠く伊勢湾岸まで見えたと云われる。
昔は小牧城・名古屋城・遠くは清州城まで見えた事であろう。
次は加治田城東曲輪方面と石垣や正式旧登山道・大手道方面。
加治田城衣丸方面の遠景。
富加町役場や南公民館、川浦川と津保川が合流する高畑方面も十分に見える。
我が本社である有限会社天池化学も視野に確認できる。
加治田城本丸曲輪にある表示板。
表示板には加治田城の歴史とこの地域での合戦の内容が記載されている。
地図も載っているので把握しやすい。
本丸曲輪より東へ。
東曲輪は第二曲輪の場。
石垣の礎の石垣が木々の深き根の場所にて確認。これが現代まで遺っているという事は、礎の基礎をしっかりと造ったからであると考えられる。
角度を変えて撮影。
しっかりと加治田城の石垣礎が遺っている。
曲輪は石垣で覆われていたのであろう。
石垣の一部。
加治田城本曲輪石垣。
しっかりと遺っているのを確認。
加治田城の重要拠点から本丸は石垣で築かれていた城であると推測できる。
こちらも一の曲輪より東側の曲輪にて発見。
土と木々の根に埋もれているが、しっかりとした石垣を確認できた。
加治田城の石垣を年代で調査研究してみるのも面白いかもしれないと考える。この写真は根石の石垣。
こちらも根石の石垣を発見。
木の根に覆われているが、しっかりと石垣の根は残っている。
基礎作りがしっかりしている証拠であろう。
加治田城虎口入口の石垣。
土に御漏れているため、上部がみえる。
まだ埋もれた場所に石垣がある可能性大。
石垣の拡大撮影。
丈夫の石垣も手では取れない程、しっかりしている。
歴史ある保存価値大。
加治田城東曲輪の石垣の跡。
この石垣もしっかりと遺っている。
第三曲輪の掘の場。
堅掘跡が良く分かる。
石垣の一部。
石積みの一部も遺っている。
曲輪跡をよく調べれば、石垣の根石も確認できる。
石垣が崩れた石積みも確認。
東曲輪の方に崩れた石積みが多く確認できる。
東北方面を見る。雪が積もっている山は御嶽山である。
大きな石垣。加治田城が廃城とされた時、石垣は崩され、加治田城下町に使われている歴史がある。
加治田城曲輪では、廃棄された石垣の石塁が遺っており、土に埋もれているものも多い。
曲輪のチャート層。
西側虎口の人工的な盛り土。
櫓跡と推測される。
兄の長男も加治田城の難攻不落登城によりよい思い出であり、2020年1/1の年始記念日になった。
西側虎口より先の石垣跡。
櫓曲輪の西前である。
見張台であろうか。
西側石垣跡。
天然の岩石の石垣を利用したと考えられる。
以下は西側石垣跡(石積み跡)の写真である。
西側石垣跡の一部。
西側の石垣(天然岩跡)の一部。
西側堀切境目。石(石積み)は山より崩れてきた跡。
堀切より西側の岩場跡。狼煙台跡。
搦手曲輪から搦め手道にある巨大な石は加治田城の石垣一部である。
白華山清水寺登山道途中の石積み
湧水の木橋に人工的な石造り。これは現代に造りなおされたと考えられる。
登山道の上からのチャート天然石垣が囲い込む。上から攻撃されれば、攻めるのは難しいか、犠牲者が多かろう。
白華山清水寺から更に加治田城登山道にて稲荷大明神が祭られている。
白華山清水寺清水寺公園にて、加治田城の説明看板と香川元太郎氏の加治田城絵図が描かれている。
加治田城登山が終わり、帰りに絹丸墓地へ。
この墓地は旧絹丸村の衣丸から東へ川浦川沿いに行けば墓地の場所へ行ける。
ここには加治田衆の氏族が多く眠っている霊地である。
我が祖先・先祖もここに有。西村氏・天池氏である。
墓地から東に遠く山之上富士山と云われる健康の森と展望台が見える。
北は加治田山から白華山と梨割山全域。
西は遠く岐阜城が見える。
南は、遠く勝山城が見える。
東西南北が丁度見える位置にある。
そして近くには川浦川と井戸水も湧き出る。
我が自宅も墓地から見える位置に有、先祖が常に見え、見守られ守護されている位置である。
加治田にある霊地の一つである。
人物紹介
斎藤利治(別名:斎藤長龍、斎藤長竜、佐藤忠次、他) (通称;新五、新五郎)
二代目加治田城主。斎藤道三の末子で濃姫の実弟である。織田信長の義弟であり、長良川の戦い後、織田家に寄した。この時に斎藤道三の末子である斎藤利治(この時は新五郎である)に美濃国譲り状を義兄・信長、姉・濃姫に直接渡したと考えられる。信長は美濃国譲り状と正室濃姫の影響と内助の功の働きにより、斎藤利治を美濃斎藤氏正式後継者にする為、一生懸命に地の宛てを行う。元服の時は信長より自ら執り行われ、信長の一字と龍の字を用いて斎藤長龍と名乗る。(通称は斎藤新五と言われていた)
佐藤忠能の娘の正室院を妻とし、織田信長より、美濃斎藤氏後継者となる。加治田城主となった時から、加治田衆も斎藤利治の親衛隊とも言える家臣団となった。加治田城主となった斎藤利治は、加治田衆と美濃衆・尾張衆を引連れ、織田信長の義弟として天下不武へと貢献する事となる。
信長の嫡男である織田信忠が織田家の家督と美濃・尾張の領国を譲受け、信長の正室の濃姫の養子となると、斎藤利治も姉の養子となった織田信忠の側近となり、重臣として活動し、信忠からは叔父の立場となり、織田家で信長と信忠の親近である馬廻衆と共に御供衆ともなる。
生涯側室は持たず、佐藤忠能の娘である正室院一人を妻とした。理由は、佐藤忠能の養子となり恩義を感じている事、美濃斎藤家跡取として加治田城主となり、佐藤氏一族を筆頭に加治田衆を筆頭親衛隊・家臣とさせていただいた事、一番は妻を愛し、三人(男子二人、女子一人)の我が子(斎藤義興、斎藤市郎左衛門、蓮与)を愛して大切にしていた事であろう(軍記物に恩愛涙尽や妻と子に名残りを惜しまれていた記載もある位である)。
また、親族(兄である斎藤利堯)以外でも親衛隊となる加治田衆である家臣や領民・賓客も大切にしていた。家臣とともに賓客へは、褒美として自らの刀や自らの一字の名を与える事や、家臣領土安堵や領地の加増(佐藤忠能から斎藤利治までに至っては、何十万石の大名となる)、離反したりする家臣が一人もいない事。織田信長の天下統一合戦である全国各地へ斎藤利治と共に行軍し忠誠に筋が通っている事であろうか。
織田家でも織田信長から二代目織田信忠付き側近・重臣としての扱いと人望・能力・血筋もあると共に、織田信長正室濃姫の実なる弟である事である為、大切な人物であり、美濃衆の旗頭中心人物としての位置付けと家臣団をまとめる重要な役割も担う(西美濃三人衆・西美濃四人衆(稲葉良通・氏家直元・安藤守就・不破光治)も斎藤道三末子である斎藤利治の与力や助勢しており、加治田城留守居役である兄の斎藤利堯は、稲葉良通の甥である為も関係している)。それに尾張衆まで与力として行動している(月岡野の戦い)。
他に云えば、斎藤道三の兄弟姉妹の関係もある。飛騨国は濃姫(帰蝶)の姉である胡蝶(正式ではないがそう呼ばれている)が姉小路頼綱の正室となっており、下呂・飛騨街道と国府に続く道が加治田城城下町を通り、美濃国と飛騨国の重要な要地と城中濃の中心地に城がある。月岡野の戦いでも親族の姉小路氏の領土を通り、援軍もあり共に合戦をした同盟国である(他にも斎藤利三正室や稲葉貞通正室等、重要な繋がりがある)。その加治田城(戦国時代では却敵城が一般の城の名であった。)の要地を任されているのも信用の絆であり、証となっている。
信長・信忠からの信用は絶大であり(丹羽長秀への信用位かそれ以上)、病気になった時はとても心配され、甲州征伐と中国攻めには御供を外した位である。だが、斎藤利治は、病気は治ったとして、夜中に家族の心配をかけないように密かに加治田衆の直参と共に出発し、岐阜城留守居役の兄がいる斎藤利堯の岐阜城に寄らず、姉の濃姫がいる安土城も通り過ぎ、信忠がいる妙覚寺へ本能寺の変前日6/1に内密を通して合流した。この時の信忠の驚きと、叔父たる利治への絶大な尊敬の眼差しはいかがであったろうかと想像を絶する。そしてこの夜信忠は、京都所司代である村井貞勝を共に本能寺の信長へ訪問し、酒を酌み交わした。その時、利治が加治田より病気でありながら駆けつけた話もしたであろう。信長は酒を自ら進んで飲まない性格と嗜みであるが今宵は信忠と飲んだ。利治が急遽、病気であるのに妙覚寺へ駆けつけた嬉しさと頼もしさ、信頼大も影響してか信長自身も信忠と酒を酌み交わす。そして今後の国造りと天下不武の話と行先で父子は互いに語り合いで盛り上がったのではないか。
そしていよいよ明朝6/2の明朝に本能寺の変が起こる。この本能寺の変で、斎藤利治と又従弟としての明智光秀や美濃斎藤氏の家臣であり顔見知りで深き仲である斎藤利三も妙覚寺にまさか斎藤利治がいるとは思いもよらなかったであろう。病気治療で美濃国加治田の却敵城にいると思っているに違いないし、斎藤利治がいなかった時の本能寺の変後に美濃国岐阜城留守居斎藤利堯と美濃国跡取斎藤利治へ書状を送り、共に行動する事と、斎藤利三についての四国征伐や、明智光秀の家臣となった為、斎藤利三が信長の切腹の命の件についての内容もあったのだろうか。
本能寺の変で最終的に織田信忠が切腹した後、斎藤利治が中心となった美濃衆が斎藤利三の軍勢とよく奮戦し闘い、明智光秀と斎藤利三の降伏勧告と裏切らなかった事、最後まで戦い、切腹をせずに忠死したことから上記の記載は奥が深いものとなる。
上記で記載したのだが、斎藤利治は長良川の戦い後、織田家の信長に寄す。そして信長や姉である濃姫や旧美濃家臣達の働きで、一生懸命地を宛た。そして元服式を行った。その時、信長の一字を貰い、斎藤長龍や斎藤長竜の名乗った。美濃斎藤家跡取として重要な斎藤道三末子としての立場であり、尾張統一し美濃国を攻めるにとても大切な義弟であった。その元服式まで行った理由の一つに、長良川の戦い直後、斎藤道三は信長へ「美濃国譲り状」を記し、末の子の利治(新五郎)に渡して、新五郎が直接その後信長に直接渡した可能性が高いと考えられる。手紙には「児まいる」と書いてあり、この人物とは、京都で出家した人物宛となっているが、京都まで持って行く悠長な事ではないだろう。末子の新五郎に渡したことにより、新五郎が織田家に直接行く理由にもなる。それに信長や濃姫から一生懸命地の宛を行った事や、美濃斎藤家跡取として元服式まで織田家当主自ら行った事にも深い意味と理由があるのである。この書状は現在3通ある。江濃記・大阪城天守閣所蔵・妙覚寺所蔵である。どれが本物で写しであるかは定かではないが、一番は妙覚寺所蔵が一番本物に近いと言える。新五郎が直接信長か濃姫に渡した後、斎藤道三の子の一人で後で妙覚寺へ出家した第十九世日饒上人が保管し、妙覚寺所蔵として今に伝わっているのではなかろうか。
又、信長は上洛してから特に妙覚寺を重要している。斎藤道三の子の一人である日饒上人がいる事、美濃国譲り状保管場所、正室が濃姫で養子となった織田信忠と、信忠付きとなったその側近(重臣)である斎藤利治の美濃斎藤家氏の深い関係もある。又、本能寺の変でも織田信忠が妙覚寺へ宿泊したのもそうであろう(後で斎藤利治も合流)。妙覚寺と織田家・美濃斎藤家の絆と関係は深き縁で繋がっているのである。
二代目織田家後継者である織田信忠の一番核となる側近・重臣(信忠付き)が斎藤利治であり、二番目が河尻秀隆である。織田信忠と斎藤利治の絆は深く、「ご苦労の段とお察しする。」等の美濃斎藤家跡取り親族としていたわりを現している書状もある。何より、本能寺の変にて斎藤利治は、信忠死後、家臣団筆頭として中心となって最後まで戦い、同じ美濃斎藤氏斎藤利三へ降伏せずに忠死している。河尻秀隆は織田信長の父である織田信秀の頃から仕えている重臣であり、信長に仕えていた時は、黑母衣衆筆頭であり、勝山城城主から岩村城城主5万石となっている。信忠軍団でも副将であり、軍艦・補佐役・後見役として又、信長より「秀隆を父と思って何事も相談せよ」と述べた逸話もある位である。こちらも本能寺の変後も撤退せずに最後まで与えられた甲斐国に留まっている。
※写真は、建勲神社にある織田信長公三十六功臣の額参照・一
※写真は、建勲神社にある織田信長公三十六功臣の額参照・二
絵画の拡大。旗と鎧に家紋があり、旗が青色が斎藤利治の特徴である。美濃斎藤氏として白馬にまたがる武者姿。
佐藤忠能(一代目加治田城城主)・美濃国有力国人衆で、美濃佐藤氏。先祖は藤原秀郷の流れをくんでいる。美濃国中濃地域は、美濃佐藤氏が主に支配していた。佐藤忠能は、加治田に城を築き、加治田衆(家臣団)を率いる(この加治田に城を築いた事も先見の明がある優れた人物であると言える)。斎藤利治を娘の正室院と室として養子とし、美濃斎藤氏を継承させた。子は、美濃斎藤氏と美濃佐藤氏の血を受け継ぐこととなる。
初め、美濃国守護土岐氏に仕える。その後、美濃斎藤家斎藤道三に仕え、その嫡男斎藤義龍、子の斎藤竜興に仕えた。斎藤竜興の時、美濃国において、佐藤忠能の加治田衆が一番初めに斎藤竜興を見限り、織田信長へ内通し、織田家に味方して美濃国攻略の礎となる。斎藤竜興を見限った理由の一つとして、織田家に斎藤道三の末子である斎藤利治が美濃斎藤氏を名乗った事、美濃国譲り状を信長に渡し、正式に美濃国を攻め入る正統性もある。更に斎藤利治が援軍として加治田衆と共に堂洞合戦、関・加治田合戦を戦った事も理由である。
この美濃国中濃攻略戦において、佐藤忠能の嫡男と娘の命が召された。嫡男は佐藤忠康で、忠能と共に加治田城築城時期から行動を共にしている。関・加治田合戦の時、西の加治田城出丸である衣丸を守備して長井道利の関軍・斎藤竜興援軍を防いでいたが、一つの流れ矢が忠康の鎧を貫き、討死する。この矢は弓術の達人である大島光義が放った矢だと伝わっている。
娘の方は、八重緑姫と言い、堂洞合戦の前、中濃三城盟約を堂洞城にて加治田城主佐藤忠能、堂洞城主岸信周、関城主長井道利の話し合いによって、八重緑姫は同じ一族である岸信周の養女となり、結束を深め、佐藤忠能の裏切りを防ぐ為に行われた。つまり、人質である。堂洞合戦で、織田信長から前々より内心していた佐藤忠能と加治田軍勢は織田軍が堂洞城の西と南側に軍勢が陣を張った時に三城盟約を破棄し、織田軍に味方する。その時間は合戦前の深夜過ぎに岸氏へ情報が流れ、八重緑姫は呼び出され、刺殺。その後堂洞城長尾丸へ竹の串に貫いて磔にしたと云われる。長尾丸は加治田城からよく見える正面であり、磔が加治田城下町からもよく見えたであろう。姫の遺骸は、深夜に加治田衆の忍者である西村治郎兵衛が堂洞城長尾丸に微服潜航で忍び、八重緑姫の遺骸を奪い返し、加治田城下町の佐藤家所縁である龍福寺にて霊をともらった伝えられている。
※写真は、龍福寺に保存(所蔵)されている町指定文化財の佐藤忠能の肖像画。隠居後の姿を描いている。軍記物や富加町史の資料からすると、絵画では、漉酒巾の頭巾をかぶり、左手に経巻をもち、右手に如意をもっている。
常に平時から正装・合戦時まで頭巾をかぶっていたとされる。
姉小路頼綱(別名:自綱、光頼、自頼)(隠居・剃髪後:休庵)
飛騨国戦国時代安土桃山時代大名。三木氏であるが後に姉小路氏として朝廷へ正式に認められる。
加治田の郷土歴史との関わりが十分すぎる程あるので記載する。
正室は、斎藤道三の娘であり、歴史ゲームでは胡蝶と云う名である。
加治田城主、斎藤利治と兄である斎藤利堯とは深いつながりがあり、親族である。織田家において美濃斎藤氏を継承した斎藤利治が飛騨国出入口加治田城の大名である事は、飛騨国姉小路頼綱との結びつきが強く、織田信長にとっても妻・濃姫の相婿であり、徳川家康以上の唯一の親族同盟国の結びつきは強い。
どうして三木氏から姉小路氏となったのも今後記載していく予定である。
下記は岐阜県高山市千光寺蔵に保管されている貴重な絵画である。大龍院休庵真功大禅定門。
参考文献・お勧め歴史書
この書籍は、織田信長東美濃攻略「夕雲の城」。我が講演を聞きに行った時に、最初に販売されていたので購入した。
講演をしていた東京大学史料編纂所 准教授金子拓氏もこの書籍のお勧めと紹介を関東の方でもするとのお話もあった位である。
この地域の歴史を始めてマンガにした書籍。マンガと共に資料・考察・写真も載っている。
このマンガの動画も配信されている。
地域限定販売で、部数も決まっている。とてもお勧めの書籍である。(部数がなくなり次第、販売終了との事なので、貴重な書籍。)
(詳しき内容も少しづつ我が解釈と共に載せていく予定)
富加町郷土資料館にて購入。「夕雲の城外伝猿啄城の春」の書籍である。
中濃地域にある猿啄城を中心としたであり、織田信長の中濃攻略戦の一つの攻城戦のお話し。
表紙の「春姫」が主人公とである。加治田城の八重緑姫のような悲しい宿命でもあるが、明るく武勇に秀ており、マンガの最後は・・・は、購入してそれぞれで読んでみれば分かる。
お城の歴史から坂祝町についてから落城後、河尻秀隆が城主となり勝山城となった事も後半で記載されている。
この書籍も地域限定販売でありお勧めの書籍である。
軍記物 「堂洞軍記」
この軍記には、加治田・堂洞合戦(堂洞合戦)について、濃く細かな事まで記述してある。合戦の時間から合戦方法、合戦に至るまで、落城後、合戦後のそれぞれと。
軍記物が地域で遺っている事は貴重な資料であり、織田信長の美濃国への戦いもこれを読めばよく理解できる。
富加町を主戦場の中心とした戦国時代の合戦についての軍記物である。(加治田勢・織田勢・岸勢・関勢)
軍記物 「南北山城軍記」
戦国時代以前の中濃地域に関する書籍は「南北山城軍記」以外はないと言える。
加治田・堂洞合戦、関・加治田合戦、加治田・兼山合戦の三大合戦が詳しく記載されている。
加治田城の事や、城主である斎藤利治・佐藤美濃氏、加治田衆の武将の事等が詳しく記載されている。
加治田城下町松井酒造場のお酒
松井酒造場でしか販売されていない、日本国・世界でも加治田だけの日本酒。
日本酒「加治田城」と共にマンガ「夕雲の城」のお酒。
男性女性、性別関係なく飲みやすいお酒である。
加治田の清らかなお水で作った日本酒。
加治田限定のお米である。まことにここでしかない日本酒を歴史のロマンを感じながらいただいてはいかがでしょうか。我もお勧めのお酒である。
富加町郷土資料館
コロナウィルスの非常事態宣言中は休館。
現在、夕雲の城イベントから堂洞合戦、堂洞城・加治田城の展示が一番奥で行われている。
その展示の撮影許可も職員の人から頂きました。
次回は少しづつ、展示品を載せる予定である。
以下は富加町郷土資料館特別展示室の一番奥にある展示室の写真である。無論、職員方に写真撮影許可を頂き、撮影している。
一番奥の特別展示室にて戦国時代の加治田城と堂洞城の資料と漫画、パンフレットや古墳時代の土器も並べられていた。
特別展示室で入口。その左側には茶臼山古墳の模型も展示されていた。
加治田城と堂洞城の絵図や地図。絵図には香川元太郎氏の加治田城が描かれており、堂洞城は漫画の城絵である。
こちらも香川元太郎氏の加治田城が描かれている。
夕雲の城の登場人物で人の顔が入れ、写真が撮れる場所。
地域の大河ドラマ館や中濃でイベントが行われている暗フレットが置かれてある。コロナによる非常事態宣言の為、なかなか現地には行けなかったのであるが、限定パンフレットにても資料を見る事ができる。
夕雲の城漫画の主人公である梅村良澤。これも特別展示室にて飾られている。
夕雲の城漫画人物。佐藤忠能・岸信周・岸信房・長井道利。女性は中濃攻略戦の猿ばみ城(後の勝山城)夕雲の城外伝猿ばみの春主人公である春姫(実在の人物である)。
登場人物の説明版と人間関係も展示してある。織田家では斎藤新五も登場している。
略年表
表には加治田城城主美濃国人衆佐藤氏と加治田衆の内心も乗っている
夕雲の城の書籍
夕雲の城の作者渡辺氏と書籍についての説明。
堂洞軍記の展示
貴重な軍記物で地域にしかない堂洞軍記も展示してあり、現代語訳にして読みやすくなっている。
堂洞軍記
富加町にしかない軍記物。そう考えると貴重品であり、重要軍記物でなかろうか。
加治田村の絵図
1747年江戸時代の絵図である。
解りやすく現代絵で書かれている。
江戸時代では城下町を継承し、宿場町として大いに栄えた加治田である。
堂洞城本丸
岸信周と妻が辞世を読み、夫婦で刺し違えた地である。
堂洞本丸跡
上記の写真を拡大。手前の小山が夕田茶臼山古墳であり、信長本陣である。
上空から見た堂洞城本丸西側
織田軍は西側から攻めてきたが、伏兵と地形の守りが硬く撃退した。南と北側加治田衆が堂洞城を徐々に攻城し、終に堂洞城本丸落城とつながるのである。
加治城限定の旗。(日本国内・世界でも加治田しかない旗である)
香川元太郎氏の絵画が旗の下に描かれている。
「織田信東美濃攻略」ゆかりのの山城との記載有。
だが、我からしたら、東美濃攻略も正しいが、詳しくは美濃国中濃攻略が正しいと考える。
現在は美濃国においては、西濃・中濃・東濃と岐阜市にわかれている。
指摘するのも現在を生き、郷土歴史を愛し、時間がある限り調査研究している証と考えて頂ければ中濃攻略の言葉の意味もよりよく解る。
この旗は、現在、加治田城本丸跡にも掲げられており、遠くから見ても本丸跡の整備と旗がなびいているのがよく解る。もし旗の販売があれば我も買いたいものである。
以上がホームページに記述する郷土歴史の研究史である。
これ以上の詳しい歴史・研究史については、今後の出版物で執筆していく予定である。
また、歴史・研究史の書籍や資料について興味のある方は、今後出版予定の書籍や参考文献を参考にして見て下さい。
教会員・求道者・宗教団体関係者・神学院生は研究史に参加できる資格がありますので、入会や参加希望者等はメールや手紙でお問い合わせ下さい。
出版物(以下は歴史・人物の出版物を今後載せていく予定
治天論 チャーチ・ツーリズム ~地域の歴史、伝道(活性化)~
2013/9/30出版しました。
キリスト教についての研究・論文ですが、加治田衆についても記述してあります。
神秘十字研究史 郷土史・地域史・加治田歴史 第1巻
2017/6/30に出版されました。
加治田の霊地を中心に記載してあります。
神秘十字研究史 郷土史・地域史・加治田歴史 第2巻
2018/9/30に出版されました。
加治田を中心とした霊地の郷土歴史の書籍であります。
第1巻からは粘土のように付け足していく書籍となっております。
表紙にも加治田勢の旗を表現してあります。
四季の国 我(和)の心 第一俳句
2021/4/29に出版されました。
四季の俳句でありますが、歴史の俳句も時に詠んでおります。
俳句は時の時代のでもあり、詩ともなり、後世に遺す証である。
心豊かに歴史を詠む。
心、ここに有。
今後も加治田を中心とした歴史書籍を出版していく予定です。郷土の歴史を中心とした書籍と、地域・人物・関わる証書である。