#17 ON THE OTHER HAND THERE'S A FIST

 なんか、BBSで漫画関連でない話をタラタラ続けて書き込むのも申し訳ないので、急遽こちらに転載する事にしました。こちらならおもいっきし(笑)、好きなアーティストの事をだぁぁぁと節操なく語れるので…。BBSを読んでしまった方は、別に更新でも何でもないですけど、ちょっと加筆してます。(以下転載)

 さて、またも趣味話で恐縮ですが、現在(5/20)内輪で音楽話題が飛び交ってまして…それに振り回されてるというのもあるのですけど(笑)。
 夏の風物になった大型ロックフェスの事とか…(多分、全部行かないと思いますが)、ここの所毎年悩みの種になっている事は確かです。
 その昔彼等が現役バリバリやっていた頃、極東で中高生だった自分が「あ〜、ライヴ見てみたいなぁ…」と思っていた人々が、またぞろ来るんですな(;_;)。

 で、まぁ一番有名所といえば静岡でも、山梨でもないけどFujiロック・フェスっていうのがあるんですが、今年も私的にイタイ人が沢山やってきてくれたりします。

 それはまぁいいんですが、今年のラインナップ(いや、昨年も関連の人が来ていたんですが)に
ウィルコ・ジョンソンというテレキャスの猛者で、元Dr.feelgoodという大好きなバンドのギタリストだった人が来ます。彼等や、昨年Fujiにその名を列ねたニック・ロウやコステロらを称して「パブロック」と呼ばれてまして、いわゆる英国の生ぬるい黒ビールを出す様なパブで演奏していた猥雑で楽しいバンドの事です(?)。
 アメリカのガレージバンドが(まんま「車庫」で練習して結成したような日曜バンド…とでも言いましょうか)似た様なスタンスだと思うんですけど、こういうバンドはほとんど先達がちょっと成功し、小金が貯まった頃合を見て、独自の(インディペンデント)レーベルを立ち上げ、そこからイキのいいバンドのレコードを出していたりした訳なんですが…

 え〜っと何が言いたいかといいますと、私は彼等(前記)を輩出したStiffレーベルというのが大好きだったのです。元々、アップル(ビートルズが作った独立レーベル)なんて土壌があるお国柄か、小さなインディレーベルが70年代以降、英国で盛んに出てきて(Virginもそんな一つではありましたが…)80年代全盛を向かえた…という感じなんです。

 で、前後しますが、そんなこんなでウィルコ兄貴の名前を20年ぶり?位に目にして感慨に耽っていたのですが、「あ〜、そうだわStiffの人って今?」と、またも更新もせず(;^_^A捜索活動を始めてしまったのですが…なーい!!情報が全くといっていい程ないんですよ、これが(T_T)。
 だって、ウィルコとか「いい」と思って呼ぶんでしょ?と意気揚々とググったりしたんですが、
思い出す限りのStiff関係者を検索してみたのですが、入力して待つ事数秒…全1件とか、あれぇ?
なんか涙目になってしまいました。
 特にJona Lewieって、もう未だにすっごく好きな人がいるんですが、「スティッフ ジョナ・ルイ」検索ゴー!…あれ?じゃあ「リュイ」? 正解はジョナ・ルウィだったみたいですが
1件かよぉ?しかも、アマゾンでスティッフ・ベスト盤収録もの…って。死んだの?って思っちゃいましたよ(T_T)。すっごい落ち込み…『sex & drugs & rock&roll』の故イアン・デューリー御爺でさえ700件(実質300件位?)…

 温故知新にすがる訳ではありませんが、ネットが発達して淘汰されていくものがすぐ目に見えるってなんだか、すごーく複雑な思いがしました。凄くいいものだけに…
 こーなると、業といいますか1件でも増やしたいがために無性に記録に残したくなるものですね…ジョナ・ルイ、ジョナ・ルウィ、じょな・る〜い!!!!って、ここの掲示板はロボット検索はされないので残らないんだけどさ(;_;)。

ジョナ・ルウィJONA LEWIE(ジョナ・ルウィ)
StiffRecords #SEEZ 8
SIDE1
1.The baby she's on the street
2.Laughing tonight
3.Bang-a-lang-a-boom-er-ang-man
4.The fairground ride
5.On the road
6.Vous et moi
SIDE2
1.I'll get by in pittsburgh
2.Bureaucrats
3.Hallelujah europe
4.Police trap
5.Feeli' stupid
6.The last super at the masquerade

 以上、掲示板からの転載です。お薦めアルバムがこのコラムのタイトル↑「ON THE OTHER HAND THERE'S A FIST」です。どこかで見かけたら買ってあげて下さいm(_ _)m。ニック・ロウやクライヴ・ランガー系(ex.デフ・スクールやセイラー、パイロットとかね)等お好きな方は是非。って、ランガー聞いてたら御存じ過ぎかも知れませんが…
 よ〜し、これでジョナくん(「くん」っつう歳ではもうないだろうけど…)の検索が1件増えたぞ(笑)!しかし、何やってんだかなぁ、私も…(;^_^A。

(20.MAY 2004)


#18 セックスと嘘とマンガ本(今回はめんどくさいので日記口調で)

 8月も後3日を残すその晩、何年ぶりよ?という歌舞伎町へ向かう。ひょんな事からお声がかかり海外で自分の漫画が翻訳される…という、なんだかねぇ〜な、所から始まり漫画家さんとはもちろん、普段からあまり人と接する事がない(しない)人間で、飲み会といっても私にとっては一騒動だった。
 初対面だわ、下戸だわ、仕事だわ、で、いつもの「何かしなくては!!」発作勃発。帰ってきてから「ああ、面白かった」だったけど、もうクラクラでぶっ倒れ状態。が「あ〜そういえば私、不眠症だったんだ…」と、横になってからも頭は冴え冴え。結局気を失ったのは5時前くらいと推測。

 で、まぁそれは置いといて、とにかくロンドンのICAで毎年(?)開かれているらしいイベント関係者さん達と、ちょっとした飲み会があるので出て来ないかという事で、顔を出す事になった。
集ったのは、私側からの繋がりでは、この飲み会の発起人でMangaMover(以下MM)の主幹及びMMに掲載されている漫画の原作も書かれている(もちろん、御本人も漫画描き)、ショーン
・マイケル・ウィルソンさん。ショーンさんに日本でのインディペンテント出版物に関してビジネス・アドバイザーになれるのでは?てのと兼「MY通訳(笑)」で無理矢理道連れしていただいた『米国音楽』の堀口麻由美さん。で、ショーンさん繋がりで、いろいろ日本での出版にかかわりのあるPIE(ピエ) BOOKSの編集者の高橋かおるさん、と、今回イベントに参加される漫画家の高浜寛さんと、フレデリック・ボワレさん、(は、今回のイベントは不参加)以上6人(途中高橋女史は退席)。集合前、遅れてくる事になった高浜さんをショーン氏は「カン、カン」言っているので、私の頭の中ではず〜〜と、ダモ鈴木が叫んでいた(?)。

 …という事で、早速御一行様歌舞伎町へと向かい(高浜さんはちょっと後から参加)、さてさてと「いっぱい飲み屋」風な処へ(ボワレさん御指名)。
 私はここでも何度も書いてるが、漫画を殆ど読まない人間なので高浜さんもボワレさんも大変失礼な事に全く存じあげなかったが、とりあえずあらゆる場所、時間、感覚で「漫画」というものを描いてる人達と話しをしてきた…という感じで、その場でお互いの本だのを交換し(名刺代わりですね)「ああ、なるほどね…」と、飲み会開始。

 ここからは、私が感じた「第一印象(多分、第二は無しと思われ)」それぞれの方の印象を勝手に書く事にする。
 
 まず、ショーン氏とは既にメールで何度も連絡していたのだが、如何せん私は「日本の漫画家」、ショーン氏は私にとって「編集長」な訳でつい先日まで私のメールの冒頭は「Mr.Wilson」と書いていた。「頼むから、ショーンって呼んで!!」との繰り返しで、「Hi, S.S.Sean... That's OK?」みたいな事になった。が、本人と会って話してみたら、その日の帰りには「どつく」始末…(汗)。というのも漫画ももちろんだが、多分漫画並に一生切り離せないであろうロックと映画が被りまくりで、ブロークンもいい所、片っ端から名前をあげたり、唄い始めたり(;^_^Aで、「うわぁ〜、それ!!」とか、そりゃもう、宣伝してもらおうと思っていた自分のCDやらフライヤーを渡せるかヒヤヒヤしていた。
 彼の作品及びお人柄。頂いた本は原作だった上、昨日の今日で同じくパラパラ拝見状態だったのだけど、とにかく凄まじい漫画に対する熱意ね、まず感じたのは。正確にはスコティッシュなので、「イギリス人」と括っちゃうとまずい(笑)。彼曰く、いわゆる「イギリス人」に皆が抱くプロトタイプは(男版。後でまた詳しく書くが)ヒュー・グラントなんだそーだ(笑)。彼の場合はとにかくスポンジの様に、何でも吸収しようとしている感じがした。

 一方、高浜さんとボワレさんは…というと、なんというか「肉体」を持った人達と言うか、パッと頭に浮かんだのはカミーユ・クローデルとロダンみたいな関係?。作品を見てその作者に会うと「しっくりする」ってのは当然だし(自分でも言われる)、特にその時頂いた本をパラパラパラと拝見して、「メタ私漫画(私小説?)」に近い(これはホントに私の印象)作品の様だったので、言葉はヒンソーですが「肝っ玉すわってるなぁ…」と感心してしまった。また、絵に描いた様に(と書くと失礼ですが)ちょっと高浜さんの具合が調子悪かったようで、そんな雰囲気も手伝ってか、かったるそ〜オーラが揺らめいていた(別に不快感を与える類いではない)。でも、インタビュー引き受けたり、ああいうイベントに参加できるのって、やっぱりそれってすごいよなぁ…と、妙なところでまたも感心してしまう。

 全くジャンルこそ違うが、同じ「日常、または架空の日常」を描いていても彼等の(高浜&ボワレ共同)作品は抜け落ちた己の髪の毛のごとく、逃げも隠れもしていない気がした。が、私は完璧「逃避」型、自己防衛の体勢バリバリだ。もちろん、思いっきり自分では赤面ものに「己」が出ているのを感じるのだが…改めて某所で「もっと自分を出せ!」と、繰り返し言われていた事を思い出したりしていた(ため息)。視線恐怖症気味な所が自分にはあるからか?ワイワイ騒いでいても、どことなく目を曝して話してしまう。私の究極の「お終い」は象の墓場で、だ〜〜〜っと行って、ザッと跡形もなく消えるのが理想の「お終い」。
 ボワレさんとこのお家芸じゃないですが(笑)、ランボーは海を見たこともないのに海の詩を書いた…っつうのもありだから、私はこの先も大ボラを吹きまくっていく事には変りない。きっと、高浜さんやボワレさん達とはアプローチは全く違うと言うか、当然皆違う。私は自分がいなくなっても、自分を知っていた人、或いは読んだ人が「私=作品」と結びつかないものを残したいと、常に思っていたりする…難しいけど。
 と、彼等のコラボ作品等を拝見して、座中でフッと思ったりしていた。

 …と、人物紹介はこのくらいにして、正確には飲み屋で最後までいたのは5人。いや、もうなんだか漫画なんて描いてる人達だから、とにかく皆「持ち札」が多くて4時間ばかりで話を収めようとする事自体が不可能。おまけに、ショーン氏は英語、日本語はほにゃほにゃ(逆バージョンが私。聞き取りまではなんとか…)、ボワレさんは英語は分るけど日本語でお答え、という凄まじさで、高浜さんはいろいろこういうチャンポンの席にお慣れのようでかなり冷静。しかし、共通の「漫画」の話題はさすがに皆、勘で通じていたと思う。

 最も、漫画の事でそれっぽい話で面白いなぁ…と感じたのは、作業行程の件。日本では下描き前に「ネーム」というものを出す。
 と、その前に一つ、アメコミの行程の説明をしておく。いわゆるマーベルやDCの様な漫画は大抵、原作(別人の場合もあり)および下書を描く人をペンシラー、ペン入れする人をインカー、フキだし(Balloon"風船")を書く人はレタラー等々、日本のアニメーションの様な分担制で作業するのが一般的。

 で、私は「日本ではネームっていうのを描くんだけど、イギリスは?」と、聞くとそれに当るのは特に思い浮かばなかったようで、人それぞれだけど作業としては日本の漫画とアメコミの中間的な行程で作業をしていくらしい。もちろん、日本式のオール1人作業(物語から仕上まで)の人もいるし、アメコミ程細かくないにせよ、ほぼ分担の場合もあるそうだ(日本で「アシスタント」さん的な存在だけど、日本ではアシスタントって決して「共作者」として名前は出ない。それってなんか変だといつも思っている。映画のエンドロール見てみてよ、犬一匹だって名前が載るんだよ。人によっては「目」しか描かない漫画家さんもいるんだそーで、それって報われないよ、アシさん…)。
 肝心の「ネーム」に関しては、本人の確認の為…という感じで、編集者に見せる為のものという認識ではなさそうで、シノプス(これは、プロットに当る様だ)であったり、ラフだったりと「これ」と当るものはなさそうであった。
 また、ボワレチームも「ネームって言う言葉は使った事がないね」との事(日本での話)。尤もボワレさん曰く、今まで日本で仕事をしてきたけれど、いわゆる「漫画雑誌」で描いたのは太田出版さんくらいだったので、そういう言葉は殆ど出て来なかったらしい。だから、ネームに当るのは「ラフかなぁ…」との事。ただ、突然思い出した様にフランス漫画(バンド・デシネ)では「totoだ!!」と笑い出す。メモ帳を取り出し、サクサクと何やら書き出すと私から見ればどー見ても「ネーム」、コマを割って、その中に○+で顔らしきもの描き、バルーンを描きだした。「あ、それそれ!」と、私。○+が並んでいるので「toto」…実に分かりやすい。そして皆「ネーム」の語源にあれこれ悩む…。

 また、印象的だった言葉が「influence(影響)」。これはもちろん、有機物、無機物、抽象、具象…やはり男性陣はキーワードには「女性」が必須のようだった、が、私も描くとしたら断然女性の方が好きだ。そりゃ、見ても描いても「見目も美しいほう(人でも物でも)」に越した事はない、が美意識がどこにあるかはそれぞれの作家性といったところ。その辺がボワレさんの説く「ヌーベル漫画」っつう、作家主義(編集サイド主導ではなく)にも繋がっていくのかとも思えた。

 んな、こんなで漫画講釈らしきものはその程度だったのだけれど、私的には下世話の方が面白かった。(ここで、ボワレ氏が頼んだお酒の銘柄「くどき上手」から、各国のナンパ事情に展開。(笑))。イギリスの男は女の子に声をかけないんだって?友人の女の子がイギリスに行った時の話をボワレ氏が振ってきた。が、スコティッシュは違うよ!と、ショーン氏が反論。ここで、例のヒュー・グラントが出てきたのだ。が、ヒュー・グラントクラス(笑)は声かける必要ねぇだろう…と、密かに私は微笑みながら殿方の艶話に耳を傾けていた(もちろん「気質」の話だっちゅうのは分りますよ)。実に楽しい。ラテン系はやっぱ凄いとかね…(爆)

 ワールドワイド…とか思っちゃいそうだけど、これが案外行動範囲というかなんとなーく、「案外狭いのね、この手の世界」ってやつで。同行した米国の堀口さんのイギリスのバンド友人がショーンさんの友達だったりで、いきなりその場でケイタイから、友人にTELったり、ボワレさんと私は一時期同じ編集部内をウロチョロ(っちゃ、ボワレさんに失礼だけど)してたりで。また、漫画業界についての話も盛上がり、ショーン氏曰く「Well…○○(出版社)ムカツク?トモコ」とか(そーいう言葉は直ぐ覚えますね、私もですが)「Yup!!」「Mother F○○kerね?」(一同爆笑)「Sure!!」で、ボワレ氏「じゃあ、今度○○でトモコがMother F○○kerと言ってたと言っとくね(シレっと…これがエスプリか?)」「Nooooo!!!!!じゃなくて(ボワレさんはバリバリ日本語)、ヤメテです!仕事無くなるって!?」いいカモのような状態。
 「日本は漫画大国とか言われているけど、っかもうそんな事言ってるのは大企業のおやっさん位だ」と、漫画通?の人や先端系の人は言うけれど、実際その商売をしている日本の漫画界の末端の人間には「アート」とかうんぬん以前に、この日本の漫画事情は死活問題だったりするのが本音(泣)。

 そして、早いもので4時間。宴もそろそろ終焉となり、高浜さんとボワレさんはここでサヨナラ。ボワレさんには申し訳ないが、フランスについて知っている私の知識は、ゲンズブールやボリス・ビアン、フレンチじゃないけどアンリ・ミショー程度だったり、唯一私が好きなフランスの漫画家さんも、ちょっとボワレさんには苦い思い出っぽそうだったので、それ以上は掘り下げなかった。高浜さんとも、もう少し席が近ければお話ししたかったけど、体調がホントに厳しそうだったのと、私は私でテンパっちゃっていたのでまくしたてて、ご気分が一層悪くなるのでは?と心配だったので、時々ぼんやり彼女を目で追ったりしていた程度だった…ざんねん。

 で、私と堀口くん、ショーンさん(多分、宴の終り頃のショーン氏に向かって私が言う「You」は「アンタ!」に近かったと思う…(汗))は、もうちょっとだけ時間が取れたので、コーヒーを飲みに喫茶店に入る。私的にはこのくらいの人数が精一杯なので、やっとホッと落ち着いて会話をするも、ラストオーダーで30分が限界だった。ここでは非常に個人的な話から、特に私が好きなイギリスの作家や、ミュージシャンの話を制限時間一杯まで語りまくり。「自分の漫画が訳されるってどんな感じ?(嬉しいか?ってニュアンスで)」と聞かれたが、私は「アメリカ人がサムライの漫画を描いたくらい変じゃないかと思っている」と答えた。ショーンさんは笑った。そうでもないよ、と言ってくれたが、いやぁ私は私のフイルターを通して「アメリカ」というファンタジーを描いているんで、それが訳されるというのは、なんだか嬉しいより先に何か奇妙な事が起こっているとい感覚しか実は湧いていなかったりする。

 そんなこんなで、いろいろ面白い話もあったが、それはまた何かの機会にでも思い出したらBBSにでも書いたりするつもり。とにかく濃い4時間だった事は確かだった。
 しかし、たかだか4時間でこれだけ疲れるんだから、ホント、ロンドンなんか行ったらお医者から貰った薬を全部飲んでも、多分ぶっ倒れてたと思う(笑)。

PS:  最後に。いや、これはと〜っても私の趣味の事なのだが、めったに人様のサインとか欲しいと思わない方なのだけれど「ゲ〜〜〜〜、何それ?!ちょっと、マジ、サイン貰ってよきてよぉ?!」という、私にとっては伝説っていうか、神さん位かっちょいいと思っている人にショーン氏は会っていた。もちろん、ショーン氏も「スゲー、ドキドキネ」と、日本語で言ってたけど(爆)。
 頼む!、クリス・レイノルズ(漫画家さん)はいけそーでしょ?スカイ・サクソンは諦めたくないけど…今度会えたら「ゼッ〜〜〜〜〜タイ、貰ってくれ!」と、念を押してお別れをした。MMはどーした? Do Your best!!!!

(31. AUG 2004)


#19 りんごが3個とみかんが2個あります…

 ちょうど掲示板の方で『ライフ・アクアティック』という映画の話題が出たので、ちょっと「生きもの」について…というか、ほとんど関係はありませんが(汗)、ふと、思い出した事柄があったので、久々の駄文を…。

 その昔この仕事に就く以前某所へ入社面接に行った時の事(まぁ、私が行った所ですから、堅い所ではありませんが)。一次試験(作文提出(笑))が通って、さて面接の日…。
 面接官(編集の人)が、「これは個人的に面接をする人全員に聞いているんだけど、もしあなたの部屋に植物があって枯れそうになっていたら、あなたならどうしますか?」と、安っぽい雑誌の心理テストみたいな質問をされました。意図が余り良く分らなかったので「どうするとは、どういう事ですか?」と聞き返した所「例えば放って置くとか、いろいろしてみるか…」みたいな事をいわれたので、こんな質問で合否が決まる程度だったらどーでもいいや、と思い素直に「生ものは部屋に置きませんが、仮に置いていたとしたらそのまま放っておきます」と答えました。で、落ちました(笑)。
 落ちた理由は分りませんし、もちろんそれ以外に落とされる理由は山程あると思ったので別に合否に関しては、どうこう思っていませんでしたが、すごく「奇妙な質問」だったので未だにその事が忘れられずにいます。

 「責任感」の有無、のような重みのある質問とは思えませんでしたが(「人柄判断」か、その面接した人の個人的「相性判断」の基準程度だったと感じましたが)、「言葉」通り質問を素直に受け入れれば、10分やそこいらの面接で答えられる内容ではありませんし、仕事柄何か「気の利いた言い回し」をすれば良かったのかもしれません。が、私は1の質問には10答える様な性分なので(というか、そういう「お年頃」だったというのもありますが…)一瞬、その質問をした人の顔をジッと見つめてしまいました。その時、その面接官も同じく私の顔色を伺っているようでした。正にお互い「腹のさぐり合い」状態でした(まぁ、そもそも会社の面接なんてそんなものですが)。
 大体、仕事の面接官の質問を質問で返す時点でアウトですが(笑)、多分この印象深い「面接事件(?)」は、その後ある書籍で「ああ、これだわ…」と今でも自分を悩ませている事柄の1つだ、と気が付きましました。

 かなり古い書籍でなので、今はもっと「進んでいる」と思いたいのですが、多分今でもこのような質問や問題から「踏みはずし」てしまう子が少なからずいる…と、思っています。
 その児童心理(教育)学の書籍の一文から:算数の質問で、『ここにりんごが3個、みかんが2個あります。合わせていくつでしょう?』という問題で、ある子供は悩んでしまい、答えられずに算数が嫌いになってしまいます。算数の問題として理解していれば答えは「5個」と、いたって簡単な「足し算問題」ですが、ある子にとっては「りんごとみかん」という前提に戸惑ってしまう…という困った「出題」なのです。ここで「『くだもの』は全部合わせていくつでしょう?」と問題文を代えれば、かなり正解率は上がるのでは?、…と。

 このくらいの(レベル)問題を学校で勉強している頃、「情操教育」という名の元に「大人」の既成概念が養われていく(植え付けられていく?)のもこの時期です。そんな年頃、大人の質問に対し質問し返す事ができる子供ははたしているのか?…多分、ほとんど皆無でしょう。
 早熟な子供なら前記のような問題をサクサク理解して「正しい答」を答えてみせるか、なんクセ(笑)をつけられる事は可能かもしれません…。
 ですが、ごく普通に大人の「発言」はすべて正しいと思っている子や、人に質問する事が苦手な子供はその「疑問」を抱えたまま自分は「算数ができない」と思い込み、そのまま大人になってしまう事が多々あると、その本には書いてありました。算数に限らず全て「放棄」してしまう場合もあるかもしれない…いや、多分あるだろう、と、私はその章を読み、感じていました。

 少し話はずれますが、昔から私が最も「気味悪い」と思い続けているのが、いわゆる九九算の暗記です(笑)。もちろんそれを習った事は無駄だったとは思っていませんし、日常生活に「暗記」という手段は必要不可欠だとも承知しています。ただ、どこの国でも「暗記」は学習の一手段として必ず取り入れられていますが、これは大人の合理的な学習方法を無理矢理「柔らかい」脳みそに突っ込むかなり荒っぽいやり方だなぁ、と思っています(「固くなった」脳みそにこそ有効だとは思いますが)。
 と、この手の話はあまりにも手垢にまみれた話題なので、適当に端折りますが…。
 要は何が言いたいのかと言うと、言葉は乱暴ですが大人からすれば、そもそも子供とは「めんどくさい」ものです。…というより、本来「何か」を育てたり、教えたりするのは、とてつもなく「めんどくさい」ものだと思っています。
 (また余談になりますが、私は昨今言われる「学習障害」という原因の1つに(病理的なものは別として)疑問を持っています。どこか大人の「体のいいご都合解釈」も含まれている気がしていまして…)

 とは、いいつつも、自分もときたま前述の面接官と同じ様な質問をして、相手を困らせてしまう事があります(「当然、理解してくれるもの」との、勝手な思い込みからです)。
 幸い、今私の身近にいる人達は、この「めんどくさい」をこなしてきた人、あるいは「めんどくさい」を充分に施されなかった事に「ある時期」気が付いていて、一生懸命その埋め合わせをしていこうと努力している(私も含め)人達に囲まれている点で、人との間の平衡を保っていけてます。
 これは極個人的な感覚かもしれませんが、とかく私くらいの年齢になると、余程の「根気」がないかぎり、「めんどくさい」はできるだけ避けたい…と、思ってしまうのが本音です。もちろん、馴れ合いはご免ですけど。

 ただし、これは私生活では許されても(いえ、私生活でもトラブルになる問題もありますが)、一歩外へ出た時、ましてや何かを他人に伝えようとした時、とても厄介な問題になります。どこまで咀嚼しなければならないのか?と。
 咀嚼をせず相手を説き伏せるのは簡単です。「詭弁」や「強弁」で自論を押し通せばいいだけだからです。また、それを補う「情報」は巷に嫌というほど溢れています。「だって、りんごとみかんは違うものじゃん。りんごとみかんは一緒にできないよ!」と、子供がいうのは許されるかもしれません。
 一方大人なら「りんごとみかん」は『くだもの』であると、当然相手は理解していると「思い込んでいる」ので話を続けます。しかし、相手が「似非大人」だと事は厄介になり「りんごとみかん」は全く「べつもの」と主張し、しかも伊達に大人な分、理屈(へ理屈?)を付けて堂々回りを起こしてしまいます。

 先の私と面接官が「堂々回り」を回避できたのは、相手が(例え誤解されても)「答え」を1つだけ選択するようにしむけたこと、そして受け手が必要以上の説明はいらないというその「意図」を読み取って答えられたからです(どう解釈されたかは不明ですが…)。

 「植物も動物も同じ生きもので、そもそもそれら『面倒をみる』のは、大変めんどくさい事だと思っている。だから私は基本的に『生きもの』は好きだが、進んで飼ったり、育てたりはしない。仮に誰かに頼まれたら断る、あるいは貰う事となったとしてもできれば断る。きっと、死なせてしまったり、枯らせてしまったりするから。それは気の毒だし自分もみじめな気分になるから。」等々、伝えたいことは沢山ありましたが、極力それは避けました。
 私が面接官の顔を見たのも、面接官が私の顔を見たのも、限られた「言葉」を読み取るのがいかに難しいかと分かっていたからこそ、そこに含まれる「別の意味」を表情から汲み取ろうとしたからだと思います。青臭い表現ですが、それがコミュニケーションというものだと思います。
 相手が二者選択をせまったらそこには2つ以外の答えしかない、後はその相手がどこまでその答えの意味を「解釈」してもらえるかは、自分の表現(咀嚼)力次第です。伝わらなかったら、それは自分の表現不足で相手を責めたところで意味はない、……私はそうとらえています。

 但し、相手が自分の為に時間を割いてまで理解をしたいと意思表示をしてくれたなら、とことん説明をするでしょう。その逆も然りで、誤解をはらむ可能性がある意見を受け取った場合、まず、できるだけ相手の「懐」に入り、「一体、どういう意図でこんな質問をしてくるのか?この人は『りんごとみかん』は区別できる人なのか?」と…(こうやって書くといい人の様に聞こえますね(笑)。まぁ、逆から言えば理解出来ない人は相手にしないって事です)。

 しかし現実問題、一般社会ではそんな悠長な対話はまずありえません(学生の放課後じゃないんですから)。と、なると、人と人との理解はますます難しくなっていきます。対話するツールは急速に発達し容易になったけれど、それを使ってお互いの「意図」を理解をするのは、逆に高度な「技術」を身に付けなければならなくなってしまったように思えます。
 「りんごとみかん」を『くだもの』と括れる人、逆に『くだもの』に「りんごとみかん」以外のものが含まれていると理解しつつ『くだもの』について語る事ができる人が少なくなりつつあることに、私はある種の「危機感」を抱いています。しかも、それが子供ならまだしも、大人ですら増えつつある事実には恐怖すら感じています。

 以前、今小学校では「ネット上での人との接し方」という授業があるとニュースで知りました。それはそれでいい事だと思いましたが、同等、あるいはそれ以上にいわゆる「オフ」でのコミュニケーションの取り方というものも、一層力を入れてくれるのだろうか?…と、考え込んでしまいました。
 短い言葉で対話する事は、そこに含まれる多くの「意味」も理解出来ているからこそ成り立つ、ということが「大前提」だと私は思っているからです(もちろん、そういう私もオフでのコミュニケーションが得意と言える部類の人間ではありませんが…)。


 最後に、これをを書いている間、「ある小説」をずっと思い浮かべていました。
 サミュエル・R・ディレーニイの『バベル-17』という作品です。極端に伝わり易い言語(符号?)の発見によって、他者と自身の区別がつかなくなったり、逆にもっとも重要な事が伝わらず、とてつもない事態に陥ってしまうというSF小説です。
 お時間があったら是非読んでみて下さい…ストーリーはちょっと(;^_^Aですが、考えさせられるテーマだと思います。

 …と、まぁ、そんな事をちょろっと語るつもりが、固い話だわ、まとまり悪いわ、で、えらい長話になってしまいました。…す、すいません。私の方こそ「簡潔」に文をまとめる技術が必要かも知れませんね(汗)。ちょっとここんとこ私も混乱しているもので…m(_ _)m。

(6. FEB 2005)





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