#14 記憶の行方

 久々、ネットでのシャバ周りで(笑)日頃ご無沙汰しているサイトさんをのぞきに行きました。と、そんな折り某サイトさんで樋口一葉さんの話題が出ていて「あれ?」と、思い出した事がありました。私の母方の墓地が東京の本郷という所にあるのですが(東大の真ん前です)、そこに一葉さんの記念碑だか、お墓があったはず…と。

 このコラムで以前書きましたが、私は「歴史」にほとんど興味が無い、と言うより実は「疎い」が正しいのです。まだ現代史はいいのですが、それこそお恥ずかしい事に特に「日本史」に関しては壊滅的であります。第一の理由に「名前」が覚えられない…と言うのがあります。これは実生活でもかなりご迷惑をかけているんですが、私は名前を覚えるのが大の苦手でして。世界史の場合、王家の世襲等、1世、2世だので、まぁ、2世は1世の息子か何かだろう…(苦笑)と分るのですが、こと日本史の場合、もう「徳川家なんとかぁ?」の世界で。自慢じゃありませんが江戸時代の前が何時代と即答も出来ない位、その辺で詰まづいてます…(;_;)。

 それと、もう一つの理由に私自身の家系が、やたら親戚付き合いが濃いもので、集まれば過去の話で盛上がる…(やれ、進駐軍が上陸した時は凄かった…とか)ので、もう、勘弁してでした。
 話は前後しますが、その一葉さんの何かがあるウチの墓なんですが、書き込みをして「そーいえば、坊さんが毎回一葉さんと共に、ウチの先祖の話をしていたなぁ…」と。
 全く興味が無かったので、今の今まで調べていなかったのですが、その書き込み後、ネットでチラッと調べた所、私がとても非国民?って位知らなかったのですが、日本史や日本文学をお好きな方なら御存じの人間だったのでした(;^_^A。

 それは、山本周五郎氏の「樅の木は残った」という小説の主人公にもなった、仙台藩の「原田甲斐」という人の末裔なんだそうで…。所が調べた結果、「お家断絶」の憂き目にあったと、あるじゃないですか?んじゃ、私は何なんだ?!と。
 そうなると人の子、気になるじゃありませんか(笑)。確かに母の実家は「原田」姓で、確かに坊さんにその「原田甲斐」の話を毎回説教で聞かされた記憶はあるのですが…で、聞きましたよ、母に(笑)。すると、どうやらオジさんだかいとこだからしかったんですな(この人も、かなりいい加減です(笑))。
 それから流れ流れて、私の祖父にあたる代までに江戸(祖父は江戸っ子でした)に移り住み、その時、その本郷のお寺を建てたんだ…という所まで分りました。そのまま、順調に行けば世が世なら「私って、実はお嬢?」(爆)だったのですが、そのジッさまがチャキチャキの江戸っ子で、戦前までは景気良く(染め物関係の商売をしていたのですが)気前が良過ぎて、身上潰す…とまでは行かなくても、ほぼ戦後までに(横浜に移り住んだのですが、横浜の空襲で全部灰…)どん底になってしまった様なのです…トホホ。

 しかし、考えてみると「あ、これって面白いかも…」と、ふと漫画描き心をくすぐられる事実ではあります。
 史実ではその「甲斐」さんは、「伊達家」を裏切った悪もんだったのだそうですが、実は敵方の懐に入り(要は二重スパイになって)伊達家を守ろうとしたんだという、山本氏の新解釈で汚名を返上したんだそうです(ネットの受売りですが…)。
 まぁ、事実はどうなのかは定かではありませんが、山本先生程の資料収集能力はなくても、一応身内らしいので(笑)、結構調べると面白い事が出てきそうな気がします。機会があったら漫画にでもしてみようかなぁ…と、ふと新緑を見ながら思った次第です。

 が!私、ちょんまげって描いた事ないのよねぇ(笑)。っつか、水戸黄門も1度も見た事ない位「まげもの」見た事無いんですけど…。
 自分でもなんか面白そうな、無謀の様な…多分、妙〜なテイストの時代劇になると想像しただけで笑っちゃうんですが…毎度、戯言でスミマセンm(_ _)m

(1.MAY 2003)


#15 持たざる者の「憂鬱」

 先日来、全く世間ずれしてしまっていて焦りまくってました…ここの所。という訳で、いろいろ思う所あり…なのですが、とりあえず久々にスポイルした事柄から思い出した事、考えてしまった事を書き連ねてみたいと思います。

 まず、ず〜っと公開時に観そびれ、レンタル屋に行っても覗く度貸し出し中だった映画『es』をやっと先日観ました。この原作の元になった「実験」は、その手の文献で読んでいたのでかなり怖いだろうなぁ…と思っていたのですが、「フィクション」としてワンクッション置かれる作りになっていたので、後味良く(?)楽しめました。
 ご覧になっていない方の為に粗筋を書きますと、任意に集められた24人の人間が(職業や年齢は問わず)刑務所という「閉鎖環境」の中、2週間看守と囚人という役割を与えられ疑似体験をし、その心理的な変化を監察するという実験を行ったが…、というお話。
 元々はアメリカで行われた実験で、現在は禁止されている実験なんだそうです。かなり昔CBSニュースで実際の記録フィルムを観た事があったのですが、70年代に行われ(アメリカの治安が悪化し、施設(刑務所)の不足が問題になり始めた頃だと思います)『抑圧』がいかに恐ろしい事態を招くか、という典型的(分りきった?)な結果で終わった…と報道されていたのを記憶しています。

 この映画を観ながら、もう一つある心理実験を思い出していました。やはりこれもアメリカで60年代に行われ、NHKスペシャルでも(80年代に)放映されかなりショックを受けたものがあります。それはある小学校のクラスで行われた実験で、1日目、先生が「ある学説で青い目を持つ人の方が賢い」といった流言を生徒達に告げ、その直後算数のテストを行うのです。
 すると驚くべき事に「青い目」を持つ生徒達の成績が日頃の平均を上回り、その他の生徒達は(ここでは「茶色い目」の子供と称していましたが)平均以下の成績が続出しだすのです。おまけにクラスの隅で(たった1日で!?)既に「青い目」の子供達が「茶色い目」の子供達を虐げ始めるのをカメラが捕らえていきます。翌日、再び先生が「昨日の報告は間違っていました。偉い人の報告で本当は茶色の目の方が賢い事が分りました…」と、がっくりと肩を落とし(先生も「青い目」でした)生徒にまた算数のテストを行うのです。結果はもちろん「茶色い目」の圧勝です。
 問題はその後です。前日虐げられていた「茶色い目」の『報復』が始まるのです。それも前日以上に…言うまでもなく暴力を伴って。

 読んでいてもうお気付きの方もいると思いますが、この目的は「人種差別」の心理実験でした。が、これは前述の「泥刑ごっこ」実験と共通する、人為的に歪んだモチベーションを与える事によって人がいとも簡単に全く別の人格に豹変してしまう、という結果を導きだしました。もちろん、その実験後慎重なフォローがなされたと思うのですが、観ていて一番恐ろしかったのは「子供」で行ったという点です。60年代(公民権運動の真只中)とはいえ、かなり危険な実験だったと想像がつきます。そして70年代、大人とはいえ再び同様の実験を行う暴挙というか、無頓着さ加減と言いますか…
 妙な「平等主義」はもちろん反対なのですが、「論証」を提示しなければ納得出来ない国民気質なのか?と、穿ってしまいたくなります。ちょっと過去を振り返れば分りそうな事だと思うのですが…それが「学問」だ、というのも分らなくはないですが…。

 ところがもっと驚いた事に、「実験」ではなく現実に(しかも立続けに!?)日本の小学校で、これ以下の発言を子供に浴びせていた教師がいたという事実です。このニュースにはグッタリしました。しかもそれを庇う職員だのがいて、まだ教員を続けているなんて…。歪みますよね、これじゃ子供も…

 話は逸れましたが、そこで再び話は『es』に戻るのですが、これはドイツで作られた映画です。言うまでもなくドイツでこの様な実験が行われる事は(ま、秘密裏にあるかもしれませんが…)まずあり得ないと思いました。既に国家レベルで一時期「同様のある体験」を過ごした国だからです。映画の中でも、その「傷」を匂わせるセリフが含まれていて、観ていて実はホッとしました。

 奇しくも、先日(ちょうどバタバタしていたので、ゆっくり見れなかったのですが)かの国の大統領が来日していましたが、肩を組み微笑む自国の首相とツーショットの新聞1面を見て軽い吐き気を感じていました。
 そして、もう一つ複雑な思いで見たのが、昨晩ニューススティションでの脱北した元「ナンバー2」なる人物のインタビューです。彼が最後に久米さんに「あの制度を崩壊させられるのは、民主主義です。もちろん今の状況では外部からの助けなしには無理ですが…。過去の日本と同じ様に」といった旨の発言をしていました。日米韓の協力と仰ってましたが、それって…やっぱりアメリカって事?…と。

 お気の毒とは思うけど、残念ながら我が国にそんな力(政治力)は見当たりそうもないし、だからと言ってマイケル・ムーア(「ボーリング・フォー・コロンバイン」のドキュメンタリー作家、兼監督)がアカデミー賞受賞時に言い放った言葉を借りて「インチキ選挙(投票が混乱し再選挙して何故か入った(笑))で当選した大統領が統治するインチキ国家」を頼りにするのも、いささか疑問…どころか不安ではあるのですが。さて、そんな日々のニュースをボンヤリ見ている私って?

 そんなこんなで結局結論の出ない問答を続け、こんがらがった心境からこの雑文のタイトルを付けました。

 備考ですがこの文章をお読みになって「うむ?」とお思いになられた方は、以下の書籍を参照していだけると幸いです。ますます他国とは言え、考えさせられる事が多いものなので(洋書は手に入れ辛いですが…)見かけたら一見、一読をお薦め致します。

左: 「GUN NATION」 Zed Nelson著-Westzone刊-
右: 「不思議の国アメリカ」松尾弌之著-講談社新書-
 両方とも結構古いものですが(前者は00年発行、後者の初版は89年)、基本的に根幹は現在もあいも変わらずなんだなぁ…と、理解できます。GUN NATIONは写真集ですが、前述のコロンバイン高校の惨劇の直後の状況や、微笑みながら子供に銃の扱い方を教える「西部男」の写真等、かなり気の滅入るものですが…表紙の写真が著者の「良心(アイロニー?)」を感じさせられ少しホッとします。突っ込まれた銃の入ってるものはスーパーのカーゴです。

 ちょっと、固くるしい上に長々の駄文におつき合いさせて申し訳ありませんでしたm(_ _)m。

(23.OCT 2003)


#16 「お笑い」の話

 掲示板では長レス状態になってしまうので雑文コーナーにて…。
 古今東西、コメディという類いのものは基本的に大好きです。「シニカルなもの」「ナンセンスなもの」「くだらないもの」…どれもいいのですが、これはもう一つの私の好きなジャンル(?)でもある「恐怖」や「不安」の対極にあるからです。仮にどちらか取れと言われたら迷わず「笑い」を取るとは思います。

 この話を始める前に、まず一つのキーワードを挙げておきます。それは故ナンシー関さんのエッセイにあった『笑いの沸点』っという表現です。笑いの沸点…とは、実に「いい得て妙」と言いますか、ナンシーさんの独断場テレビでの「笑い」のTPOみたいなものを揶揄した時に使われた言葉でした。

 さて、そもそも何を「笑う」か?という事はその人間の人柄がもっともよく反映する、というのを色々な所で目にします。私個人も全く同意見で、極端な話「悲しみ」や「恐怖」「不安」といったものを見聞した所で、人として生きていればあまり大差はないと思っているからです。
もちろん、どうでもいいという意味ではないですよ。共通項が多い分そこそこに想像できてしまい、よほど特別が事がない限り興味をそそられるモチベーションが湧かないと言うだけの事です。

 そこで本題の「笑い」の話へ。笑いの対象を少々乱暴に分けると、「他」を笑うか「自」を笑うか…という最大の違い。またそれを受け入れられるか、不快として一蹴するか?

 そのいい例が掲示板で話題に出ていたイギリスのコメディ集団「モンティ・パイソン・フライングサーカス(以下MPF)」と、対で語られる番組で米国の「サタデイナイト・ライブ(以下SNL)」です。MPFはいわゆる「自」を笑い、SNLは「他」を笑うという典型です。
 SNLは古くはジョン・ベルーシ、スティーブ・マーチン、エディ・マフィー、ポール・ルーベン(ピィーウィー)、マイク・マイヤーズ等々を輩出し「愚者(FOOL)」がする行為を笑うネタ(ある種の力技)が多く、誰もが取っ付き易い半面ともすれば安直な笑いとして低俗とみなされ、映画好きの間ではMPFの笑いを好む方が一種高尚(?)であるような時期があったと思います。

 が、MPFが失墜し、SNLが現在も残り笑いを発し続けている理由の1つに、新参者の入れ替えによる新しい風を呼び込む事に成功している事が挙げられます。「LIVE(生)」と銘打つだけに、その時々の世相(「何が今、もっとも愚かしいか?」)を敏感に取り入れ、古くなったもの(笑い)は容赦なく切り捨てて行くアメリカ方式が功をそうした訳です。
 MPFはメンバーの入れ替えは番組終了まで(正式な解散宣言というものはありませんが、メンバーの死亡という形で幕を閉じたと言えます)それはありませんでした。
 そして、もう1つの理由はその「自虐的な笑い」故の宿命的な行き詰まりです。「笑い」という刺激は、時代と常に結び付いていて(その他どんな芸でもあり得るのですが…)さらなる刺激を要求される一方でMPFのエスカレートする自虐性は、気が付くと笑えない程の過激な「ブラック・ジョーク」へ変化し、やがては「シック・ジョーク(病んだ笑い)」へと突入し、結果一時代の「カウンターもの」と認知され地下(アンダーグラウンド)に葬られていった様に見えました。

 一方、SNLは「笑い」の持つ危険性を製作者(プロデューサー)が初めから想定し、「笑い」の対象を上手くコントロールし、視聴者が「自分」ではないが(と、気付かせない、あるいはそういうネタは打切り)何処かにいるであろう「愚者」を笑う。もちろん、対象者は叩かれてもおかしく無いほどの大物や、架空の壊れた人物、擬人化したもの等…国民気質上「安全パイ」を送り出す事に長けていたという点です。その為、「コントロール」を嫌った人間は、早々にSNLを去ったりもしていますし、反したものは翌週には消えていたりします。しかし、これは仕方のない事で、アメリカの放送コードは他国では類をみない程の厳しさだからです。それでもSNLは(ベルーシー達の頃)、ギリギリの抵抗しながら絶大な人気を誇るコメディ番組へと成長していきました。

 但し、ケ−ブルテレビ等の普及で、過激さや瞬発的な「笑い」を送り出せる事が当然の様になった現在では、SNLはアメリカのコメディ番組としては、単にコメディアンの「ステイタス」、または「エスタブリッシュメント(常備組織)」になってしまったのかもしれませんが…

 そして西の横綱。同じ抵抗は抵抗でもMPFは芸風と同様、その存在自体ストレートではいかない可笑しさがあり、本来ターゲットにされる立場のお上の舞台「BBC」という国営放送で作られていたという事から、既に製作者の「自虐趣味」が炸裂し、その開けた体制やアンチ具合のカッコ良さはメンバーもさる事ながら、スタッフも含め賞賛され、我々を大いに笑わせてくれました。少々の危険は「笑い」には付き物…という前提で好きに作らせていた、なんともオトナな国と言いますか。

 しかし、そんなMPFも実際世界的に知られる様になったのは、映画製作を開始してからの事でした。テレビシリーズはSNLとアプローチは違ってもやはり「ライヴ」感覚であり、おまけにイギリス人でなくてはさっぱり分らないコントも多く(日本では1つ1つのコントに、今野雄二さんが解説を付けていたりしたくらいで(笑))、比較的世界共通の「笑い」を含んだ映画が制作されたのは、テレビ放映が終わってからのものがほとんどです。

 物理的にも放送コード的にも「ライヴ(生放送ではなくても、製作側からすればほぼ時間的には「生もの」)」では作れなかった物、緻密な計算を加え『完成された芸』として残そうとメンバーが考えた結果、「映画」が生まれたのだと思います(この試みは「ブルース・ブラザーズ」と似ていますが、その後のSNLものは残念ながら人気キャラの単なる「焼き直し」がほとんどだと私は感じています。個々の俳優の映画には傑作も多くありますが…)。
 MPFの「笑い」がアメリカ人の好みではなかったとは言うものの(一般的にはという意味で)、同じ「笑い」を作る者同士「ホーリー・グレイル」(75年)の公開後、76年SNLが絶頂の頃、まずMPFのエリック・アイドルがホストとして出演した事を皮切りに、ペイリン、チャップマンも出演し、当時の米英きってのコメディアンの豪華な初顔合わせという「蜜月」が実現したりもしました。何よりアイドルがまず出演したというのも「ホーリー」効果というより、ビートルズをパロディにした「ラトルズ」を作っていた…というのが受け入れられた要因の一つでもあるのと思うのですが。

 話は逸れましたがその結果、これらのMPFの作品が単なる懐古趣味というでもなく、「古典」と化していても再び違った形で蘇り、純粋に(「自分だけが分っている」という、ありがちなオマージュではなく)追随者にリスペクトされるのは、ライヴで消費される「鮮度」や「勢い」にはない計算された完成度と普遍性を持つ物の強みからくるもので、今でもことあるごとに再評価される理由がそこにあるのだと思います。
 要は「ビートルズ」と同じと考えると分かりやすいと思われます。ビートルズが中期からライヴ活動を一切停止したのも理由は同じで、新たな物を作る上で、それを「供給」するレコード会社などから要求される「時代性(流行)」を一見無視したようで、実はその先を見越し自分達が時代の流れを変えよう又は作ろうとし、その時点では理解されなくても結果的に普遍的なものを残したという点では勝利した…という様に。もちろん「何を今更ビートルズ…?!」と、仰る方もいるでしょうけど…、ま、好き嫌いは別に凡例として聞き流して下さい。

 イギリスには古くから「ミュージック・ホール」という演芸場(メインは歌や寸劇を主にしたもので、合間に駆け出しのコメディアンや役者が芸を発表する大衆娯楽場。日本で言えばストリップ小屋に近いかと思います)いうなれば「ライブハウス」があり、そこからチャップリンなどが登場し、やがて業界人の目にとまり…という、お家芸的な土壌がありました。
 もちろん、アメリカにも同様の場はありましたが、どちらかと言えば主なる目的は「ハリウッドへの登竜門」…という構図になっていると思います。

 そういった点から見ると、SNLの笑いは普遍性というものをスタートラインから眼中に入れていないコンセプト、「ライブハウス」をそのまま茶の間に持ってきて、消費者に吟味させ面白ければ(金になりそうなら)映画へ…と、良くも悪くも今日的な戦術で現在も「消費者」を満足させています。しかし、ライヴ故の欠点と言っては酷ですが、そのタイミングを外した時…時間を経て観た時の「古さ」がとてつもなく痛いと言いますか(特に映画にスピンオフしたものは)、「今これを観ても、ちっとも面白くないや…」に繋がっていく様に思えます(個人的な趣味の問題も多々ありますが…)。
 ところがここで、本来MPFの方がマニアックな笑いだと思っていたものが、SNLの方が消費の早さ故、マニア度を増幅させていくという皮肉な現象が現われるのです。それもかなり歪んだ形で。取るに足りない「芸」だったものが、時間を経る事で「あの○○の芸はなにげに面白かった」と語る事の快楽…と言いますか。マニアに密かに語られる事で何時しか神話化される芸人を生み出すという逆転が起こるのです。さて、どちらがどうか?と言うのは判断しかねるのですが。

 そこで、始めに記した『笑いの沸点』の話に還るのですが、では日本の「笑い」はどうなのか?
基本的には日本も「愚者」の中に「自身」見てを笑うという、イギリスに近い笑いが好まれていると思っていますが、「他」を笑うセンスも備えていてパランス的には凄く「笑い」に恵まれている国だと感じています。
 ただ、現在の一番身近に誰もが接する事ができるテレビではどうか?と、言うと…
 ナンシーさんが定義した(?)『笑いの沸点』とは、テレビという無料で見られる場所で、大した芸も持たない者が「お笑い芸人」と称し、またそれを登用するテレビ業界の安直さと(一瞬SNL方式に似ているようですが、下地が全く異なります)、それをダラダラと受け入れた視聴者への(笑いの沸点が低い=「何にでも笑う」)憂いを込めたエッセイでの言葉でした。また、その中でお笑い番組でのサクラの「笑い声」は演出としてあっても、スタッフの「笑い声」は演出の域ではなく、プロとしての自覚の無さの現われ(内輪受け)だとも痛烈に批判していました。
 その結果、高度な笑い(技術)を持つ芸人はテレビに見切りをつけ、演芸場等(金を払って観てもらう)へ還って行き、完成した技を観てもらうという選択を取っていく、或いは強いられていくというのが現状となってしまいました(特に落語などがいい例で、これはSNLではないですが検閲が「笑い」を排斥した際たるもので、安易な自主規制という姑息な行為から姿を消したのです)。

 これはしかし、ネガティブな見方ではなく本来の姿だと…。今まで私達はタダで「いい物」を見せてもらい過ぎていた、という贅沢な時を過ごせた事への感謝も含まれているエッセイだと感じたからです。
 ですが個人的に哀しいと思う事はあります。テレビはもちろんですが、日本での純粋なコメディアンによる「コメディ映画」もほぼ壊滅に近い状態になってしまったという事です。
 榎健、堺駿ニ、益田喜頓、伴淳、森繁、フランキー堺、植木に萩本…ドリフ辺りで既に「終わったかなぁ…」と。ま、大川興行やワハハみたいなのが潜在的にまだまだある!!…というのがせめてもの救いですが、子供ながらにゲバゲバやカリキュラマシーン、多感な頃に(笑)スネークマンショーの洗礼を受けた様な者には、実に悲しい現状ではあります。

 最後にもう1つだけ! 奇しくも昨晩、ケーブルチャンネル(アメリカ製作の番組でしたが)で「ALL TIME BEST OF THE FUNNIEST MOVIE」とかなんとかいう特番をやっていて、視聴者からの投票(ネットも含む)でベスト20を選んだというので、「おっ!?」と観ていたのですが、相変わらず「お馬鹿映画(実はこの言葉、嫌いなんですが…字幕ではそうなっていましたので)」が人気のある国なんだなぁ…とベスト20のラインナップを観て思いました。
 1位はなんと「フライング・ハイ」ですよ…かなり脱力でした。2位3位は「ながら観」だったので順番忘れましたが(<早過ぎ(;^_^A)「ナショナルランプーン・ヨーロピアンバケーション」(これも同名のコメディ雑誌からスピンオフしたコメディ集団で、主にチェビー・チェイス等が有名です。この作品にはMPFのアイドルも出演)、「ボールズ・ボールズ」これも驚き。スクリューボール・コメディ(ドタバタ喜劇と訳しましょうか?)が本当に好きなんだね、アメリカ人って感じで。以下に続くものも、ほぼ同系列。「メリーに首ったけ」や「Mrダマー」(ジェリー・ルイス系)。ちょっと捻った所で、ウディ・アレンの「バナナ」(この人は珍しく「自虐」系ですね)、また「え〜?!」というか「それが上なの?」だったのがメル・ブルックスの「ブレージングサドル」(これは西部劇のパロディ)で、傑作「ヤング・フランケンシュタイン」は10位以下…(;_;)。そして、入れなきゃ怒るぞMPFは「ホーリー・グレイル」でトップ10入りは果たしました、ホッ。

 ま、順位は人の好きずきだし、アンケートに応えたのがアメリカ人というのもあるので結果はさておき(個人的にはいろいろブツブツ言いたい所はあるのですが(笑))、面白いというか嬉しいのはそれぞれの映画にコメントする俳優や、監督、映画関係者が本当に楽しそう自分のお気に入りの「映画」を語る姿でした。私がこの手の番組が好きな理由に、こういうコメントが聞きたい為に見るというのがあります。嫌いな俳優や監督であっても、正に「笑いの沸点」や視点が自分と同じだったりすると(特に笑いに関しては、もっともその人のセンスが分るので…)「う、好きかもコイツ」(笑)になってしまいます。そして、気になる「ホーリー・グレイル」のコメントは…「コメディの天才集団!」「イギリスでは『人生狂騒曲(THE MEANING OF LIFE)』の方が好きみたいげどね」等、ナンセンス・コメディとしてとらえていた様でした。

 さてさて、一体ここまでダラダラと書いて私は何を言いたかったのか、自分でも?なのですが、要は「笑い」が好きで、それ故語り出すとどこから語っていいのか分らなくなる程だという事が理解していただければ、これ幸いです…といったところでしょうか。って、これで〆かい?

(2.NOV 2003)






OTHERS