アンジェリーク・コレットは、不快な雨音に目を覚ました。
白く、細い体に被る夜具をおしのけ、窓にそっと近づく。
「………」
聞こえないくらい小さなため息をつくその顔は、悲しさと憤りと恋しさで歪んだ。

大地の活性化のため、育成を始めてもう随分と経つ。
すでに育成の成果は目に見えて順調この上なく、霊震も随分減った。
なのに、どうして…どうして…
茫々と雨を見つめる女王の瞳には、先先日の出来事が聡明に蘇っていた。

〜2日前〜

  「どうする? 育成も順調で焦る事もないから、今日は部屋でのんびりしてたら?」
超有能女王補佐官は、いつもどおり今日の予定を聞きにきていた。
しかし今日に限り勝手が違うのは、延々と降りしきる雨である。
「大丈夫よ、このくらい」
アンジェはニコリと笑う。
「そう? じゃぁ濡れない様に気をつけてね?」
レイチェルはどこにあったのか、傘を取り出すとアンジェに渡した。
「うん、いってきます♪」
「肌寒いし、なるべくはやめに帰ってきてね!」
そう声をかけて送るレイチェルに、アンジェは少し振りかえり、ふわりと手を振った。

――そう、今日は火曜日…彼がいるかもしれない。

どこもかしこも、外には人気がまったくなかった。
霊震が減った今でも、人々の不安と恐怖はそう簡単に消えない。
暗く沈んだ空から惜しげもなく降りしきる雨、冷たい風を受けて揺さぶられる木々の音は
どう考えても希望や幸せなんて期待させない、こんな日に好んで出かけるのは
たぶんアンジェリーク・コレット、ただ一人だけであろう。

その当人は、育成の願いを早々にすませると、まっすぐ「約束の地」へと足を進めていた。
彼との「約束」の地へと…
いや、約束と言えるほど頑強なものではないが、
気まぐれな彼が、決まってその日にそこにいることは、
社交辞令のようにする「約束」よりは、まったくもって確固たるものと言えるだろう。

しかし、その確固たるものも、この雨には勝てそうにない。
アンジェは十中八九、彼はいないだろうと踏んでいた。
だけど、たった1%でも、彼がいる可能性があるのなら――…

レイチェルに言われたのも忘れ、
アンジェは服が濡れるのもお構いなしに、もくもくと歩を進めた。

「雨か…」
バーの一角で、窓の外を眺める麗人はグラスを片手に呟いた。
美しく切磋された透明の器の中には、
彼曰く「ストレートで飲めないなんて男じゃない」たるウォッカが揺れている。
「こんな天気に出歩くバカなんていねぇよな」
彼はグラスに視線を落とすと、その先に何かを見つめるように静止した。
そしてそのまま、しばらくして上げられた顔はうすく歪んで、
「…ちっ…」
と、軽く舌打ちをし、立ち上がった。

〜数時間後〜

約束の地の大樹のもとで、アンジェは一人、雨に濡れていた。
…やはり彼はいなかった。
来る可能性は、刻々と過ぎる時間と供に、さらに収束にむかっているだろうに、
大樹の傍から、離れる事ができなかった。
彼の面影が残る場所で、こうして雨に打たれていると…
容易には見せない、彼の暗く冷たい、自分には到底経験のない過去が、少し、
ほんの少しだけ、理解できるような気がするのだ。
解らないから理解したい、消せぬものでも癒してあげたい…
軽く閉じた瞼の先に、彼の切ない瞳がよぎった、そのときだった。

ぱちゃん

淡い温もりが、アンジェの頬を包んだ。
驚き目を見開くと、そこには金と緑の瞳がこちらを見据えていた。
「ったく、バカかお前は!」
「…ふふふ、びっくりした?」
「びっくりって…お前なぁ…」
「…寒くない? アリオス」
「バーカ、それはこっちの台詞だ」
「寂しく、ない…?」
「…」
「切なく…ない…?」
そう言いながら、アンジェは腕をのばし、彼の濡れた髪をなでた。
すると、彼はすっと細く冷えた体を抱きしめた。
「寒くない、寂しくない…だから、もう雨の日は来るな。
お前が調子崩すのは、切ないから…」
温もりをほとんど失い濡れた体を、彼は自分の体温を分ける様に包み込んだ。
「…わかった」
アンジェはそう頷くと、彼の胸に顔をうずめた…

雨の霞の先に見えるのは、甘い約束。
アンジェはしばらく呆けていた。

「おはよー。具合はどう?」
定刻、レイチェルがやってくる。
「昨日まる1日寝てたんだもの、もう大丈夫よ!」
いきおいよく振りかえり、アンジェは握りこぶしを見せた。
「だ・け・ど、今日は外に出さないからね!」
「え〜…」
「だって貴方、この前ずぶ濡れで帰ってきてそれで体調くずしたんじゃない。
今日外に出したら、治りかけたものもぶり返しちゃうよ」
「だ、大丈夫よ、レイチェル。今度は濡れないようにするから!」
「だーめ!」
レイチェルは大きくかぶりを振る。
「そんなー…」
「だめよ、そんな顔したって!
…気持ちは解らなくはないけど…貴方は女王なんだから…」
「――え?」
「とりあえず! 今日はだめ! 部屋で大人しくしてて!」
レイチェルはそう言って、アンジェをベットに連れ戻すと、部屋からでていった。
「あ、そうそう、ドアの外に人立たせておくから、余計なこと考えない様にね★」
ニコリと、超有能補佐官は言い残して…。

「…さすがだわ、レイチェル…」
私の思考なんて、すぐわかっちゃう…まぁそれで助けられている事も多いんだけど…
だけど、今日は素直に聞けない、ごめんねレイチェル・・・

――そう、だって今日は木曜日…彼がいるかもしれない。

もちろん、約束を忘れたわけじゃない。
彼がいるような気がする。
今日行かなかったら、体調を崩したってバレるかもしれない。
彼が―――…
そこで、アンジェは首を振った、自分自身に…。

違う、ううん、違うわ…
会いたいのは私、
寂しいのは私、
切ないのは私―――…

アンジェは無意識のうちに服を着替え、窓に足をかけた…

   


「…雨、か」
暗く、自分の中に深く沈んだ蟠りを象徴しているようだ――
そう、ついこの前まで、雨は好きじゃなかった。
だが、今はそのワダカマリが溶けているようだ…
すべてを洗い流せるような、ありえない希望さえ見える…。
それは、明らかに、あの日、雨に濡れていた彼女の影響だろう。
無限と思っていた自分の闇を、彼女はその細い腕ですべて包んでしまった…
窓の外に向けられた彼の顔には、先日のような歪みは無い。
「ったく、どうかしてるぜ…」
そう小さく呟いた声は、珍しく甘い含みを持っていた。

アンジェリークは、窓にかけた足の先に映る影に驚いた。

「アリッ…!」
その名を呼ぼうとした瞬間、彼に口を押さえ込まれる。
「おまえ、俺が袋叩きにされるのを見たいのか?」
それを聞いて、アンジェが大きく首を振ると、彼は押さえていた手を離した。
「ア、アリオス…どうしたの? こんなところで…」
彼女は小声で、しかしひどく驚いた様子でそう聞いた。
「…お前こそ、何してるんだ?」
窓にかけたれた足を、彼は指差した。
「え、ええ? ううん、違うの、ずっと寝てたもんだから体が鈍っちゃって…」
引きつった笑いを浮かべながら、彼女はかけた足を部屋の中に戻した。
「あなたこそ、ひどい濡れてるわ! ちょっと拭くもの…」
「病人が気まわすんじゃねーよ」
そう、彼はアンジェの腕を掴んだ。
「病気なんてしてないよ!」
向けた背中を振りかえると、彼女は力強く否定した。 「…熱、あるな」
不意に近づいた彼の額が、アンジェの額に触れる。
「な、なんのこと…」 
数センチまで近づいた瞳に、声をしばませる。
「バーカ、お前のやることなんてお見通しなんだよ」
「ぅぅ…、なんで分っちゃうかなぁ…」
彼の上目遣いに、さらにアンジェは熱をあげた。
「…俺も、おまえの親友も、おまえのことばっか考えちまってるからだろ…」
その言葉に、彼女はさらに顔を赤くさせると、耐えられず話題を変えようとした。
「ね、アリオス。とりあえずこのままじゃ風邪ひいちゃうわ」
「風邪なんてひくほどヤワじゃねーよ、俺は」
「ウソ、ひいたことぐらいあるでしょ?」
「ないね。証明してやろうか」
「え? …んっ」

  不意に重ねられた唇に、アンジェはつい身を引いたが、彼の大きな手に包み込まれた顔までは引くことが出来なかった。
すべるような感触に、 顔にひたたる雨が、小さな熱を奪って落ちていく…

「これで風邪ひかなかったら、俺の勝ちだな」
彼はやっと彼女を解放すると、平然とそう言った。
「な、なによそれ! も〜どうしてそう…!」
アンジェはカーッと頭に血が上ったものの、それ以上に熱が上がってしまい、へなへなとな窓枠に手をついた。
「ったく、そんなんで外にで、倒れてたらどーすんだ」
頭の上から掛けられる声が痛い…アンジェが頭を上げれずにいると、
「じゃあな、安静にしてろよ」
あっさりそう言って、彼は雨の中に消えようとしていた。
その足音に頭をあげて、アンジェは口走った。
「今日はありがと! とってもあなたに会いたかったの!」
少し遠くで振り向いた彼は、少し驚いているようにも見えたが、いつも通り軽く手を振り背中を向けた…

「俺も…」
彼のこの思いが彼女に伝わるのは、そう遠くもないだろう…

アンジェTOP玄関